``一意な文字列''

雑多な事柄

だから俺は酒を飲む

 飲み屋を出たら雪がちらついていた。今日はいやに冷えるなと思っていたらこれだ。夜空は暗い灰色の雲がぶ厚く一面に広がっている。
 溜息をついてコンビニに向かい、ビニール傘を買った。すぐ使うので包装をここで処分して下さい、とレジの店員に言うと怪訝な顔をされたものの包装は処分してくれた。雪はまだ降り始めたばかりだろうから傘を差す人も買う人もまだ少ないだろうが、降雪を前に傘をここで使うと言って妙な表情をされるのはなぜだろう。コンビニを出、傘を差す。向かうはひとまず地下鉄の駅だ。皮の手袋をしていても指は冷たくなってゆく。
セーターを着込みマフラーをグルグル巻きにしコートのボタンを全て閉めてもなお寒さが身体を包み、わたしは凍えてしまう。まだ柔らかな雪が降る中、少しは寒さがマシになるかしらんとコートの襟を立て、なるべくカバンを雪で濡らさないよう気を付けながら、わたしは駅に足を向けた。

 地下鉄に揺られること十五分。改札を抜け、階段を登り、地上に出たころには雪はその白さを増していた。本降りだ。パラパラと水分の少ない粉雪だったものがじっとりと水分を含んだ重い雪になっている。
 地下鉄の車内では暖房が効いていた為、凍えていた身体も温められたが、ここから目指す二軒目の飲み屋、というかバーだ、そこまではこの雪が降り頻る中を十分程度歩かなくてならない。また凍えなくてはなるまい。一度は戻したコートの襟を再び立て、傘を差し、歩き出した。まだ雪は積もるには至っておらず、アスファルトは雨が降ったときのように鈍く輝いている。ところどころに出来はじめている水溜りを避けつつ、濡れたマンホールをうっかり踏んづけて滑りそうになりつつ、早く暖かい店内に逃げ込みたい一心で、わたしは歩みを進める。ドシャリ、ドシャリと雪はシャーベットのようで、ビニール傘からずり落ちたりそのままくっついたりしており、透明だったビニールは徐々に白い部分の面積を増してゆく。

 片側四車線はあろうかという広い通りを歩く。歩道も自転車と歩行者とが別の道をゆけるように広くつくられている。ドシャリ、ドシャリ。雪は勢いを増しはしないものの衰えもしない。まだ積もってはいないが道に残る雪の量は増えている。アスファルトはほんの少し白さを増し、マンホールの凹部にも雪が徐々に詰まりはじめている。明日には一面真っ白だろう。今朝の天気予報ではむこう一週間は晴れ模様だとあったが、まったくアテにならないものだ。わたしは溜息をつく。

 ところで地下鉄が動いている程度にはまだ遅くない時間のはずだが、どうして人通りも車通りもこんなに少ないのだろうか。人とすれ違うこともなく、また車も通らない。路上駐車されている車はいくらか見えるが。十分程度の距離ではこんな空模様だしすれ違うことが無いこともあるか。こんな広い通りであっても。


 しばらくしてバーの看板が見えた。雪の夜にもぼんやりと灯る青色の看板が目につく。傘についた雪を落とし、コートに散った雪を払い、少し重いガラス戸を開いた。
 店内はしっかりと暖房が効いており、凍えたわたしの身体をじんわり暖めてゆく。こんばんは、とマスターが声を掛けてくれる。入口から見て右側にあるバーカウンターは間接照明で照らされ、ほんのりと明るい。バーカウンターの奥にはグラスと酒瓶のコレクションとが秩序立ってギッシリと並べられている。これも間接照明で照らされている。店内は全体的に少し薄暗い暖色に包まれている。
 お好きなお席にどうぞ、とマスター。わたしは頷き、入口からみて一番奥に陣取ることにした。数えるほどしか席の無い店内に客はわたしだけのようだ。店の入口にある傘立てに水が滴るビニール傘を立て、席に向いながら注文する。オールドパー、シングル、ストレート。カバンを席の下にあった籠に入れ、コートとマフラーとを席の後ろの壁にあった上着掛けに掛け、席に着く。
これだけ寒さに震えたのだ。一杯目は強めのお酒で身体を暖めたい。

 随分寒そうですね。暖房強めましょうか。マスターが訊く。このままで大丈夫です。実際丁度よい加減の暖房だった。突然の雪で大変ですね。最近やたらと寒いですがこうも唐突に降られると困りますね。わたしの言葉にマスターは怪訝な顔をした。確かにこうも寒いと雪もそのうち降りそうですね。マスターの答えに今度はわたしが妙な表情になってしまった。雪が降っているのは今だ。マスターには外の雪が見えないのだろうか。

 オールドパーはチューリップグラスに注がれて出てきた。出されたウイスキーに口をつける。口内を焼き、食道を焼き、胃を焼く琥珀色。ようやく一息ついた気がする。もう一口飲む。熱い。ウイスキー自体は無論冷たい。それでも口内を、食道を、胃を焼くほどに熱い。アルコールの為せる術だ。
 恥かしいことに酒の味がわたしにはわからない。オールドパーを注文したのはいつも飲んでいるウイスキーだからであり、それ以外の理由はない。どんなバーでもまずはオールドパーを注文する。それ以外の二、三種類しかウイスキーを知らないからだ。
 もう一口飲む。もう一口飲む。あっという間にチューリップグラスは空になってしまった。切ない。残り香を少しだけ味わい、コースターにグラスを戻した。
 店内に客はわたしひとりだが、マスターはバーカウンターを行ったり来たりしている。ひとりしか相手をする必要がないのだから悠長に構えていればよいのに。そう思うが口には出さない。その代りに二回目の注文をする。
 マスター。マッカラン、シングル、ストレートでお願いします。マスターがマッカランの瓶を手に取ったのを見て、水の入ったグラスを傾ける。カランと氷が音を立てる。夏であれば心地良い音だが寒い時期には単なる寒々とした音だ。

 コップが取り替えられ、別のチューリップグラスに入ったマッカランが出される。それを一口、もう一口、ついでにもう一口。既にもう一口分しかグラスに残されていない。
 もっと酒を味わって飲めればよいのに。わたしの前に出される酒には足が生えていて、一目散にグラスやコップやぐい飲みやおちょこから出てゆきたがるようなのだ。きっとわたしは酒に嫌われているのだと思う。一刻もはやくお前の眼前から消え失せたい。ウイスキーに、ビールに、ワインに、日本酒に、ジンに、ウォッカに、そう言われているような気がしてならない。とても寂しいことだ。わたしはひとりでも酒が一緒であれば満足できるほどに酒のことが好きなのに。
 ふたたび一口。さらにもう一口。しまったと思ったころにはもう遅い。グラスにはわずかに残る飲みさし分しか残っていない。チューリップグラスをコースターに戻し、わたしは椅子から立ち上がってコートのポケットをまさぐる。タバコをのもうと思ったのだ。タバコを取り出し、ズボンのポケットからライターを取り出す。両者をバーカウンターに置いたところでマスターはこちらにやってきて一言。お客さん、すみません、もう店内は禁煙です。バーカウンターから覗くガラスの灰皿はまだ喫煙ができたころの名残りなのだろう。
 そうですか。わたしは言い、タバコとライターをコートのポケットに戻した。そのままチューリップグラスを取り上げ、飲みさしを片付けた。

 若干朦朧とする意識の中でわたしはガラス戸越しに外を見た。既に雪は積もっていた。歩道と車道との境がわからなくなっている。一面の銀世界、というには大袈裟だが、バーの外の世界は結露の色を除いても白くなっていた。人も車も通らず、ただ雪だけが降り積る。外はもはや悠長に歩いてはいられない程度に寒くなっているだろう。暖房の効いた店内からみてもその光景は剥き出しの冬だ。
 マスターもガラス戸から外を眺めていた。ひさしぶりの大雪といった感じですね。わたしがそう言うと再びマスターは怪訝な顔をし、首をかしげた。ここ数日の天気予報は晴れといってますがね。わたしもそう思っていたと同意する。今日はずいぶん人の入りが少ないですね。外もあまり人が通りませんね。マスターは一瞬きょとんとした顔になったがすぐに温和な表情に戻り、確かにいつもよりは人通りが少ないですね、と返した。
 一面に降り積る夜分の雪の中に好き好んで出掛ける人間もいないか。マスターの表情の変化は意識に登らず、わたしはそう思い、三杯目を注文する。ブッシュミルズ、シングル、ストレート。


 三杯目のウイスキーを片付けるころにはわたしはもう出来上がっていた。まぶたが重い。顔を上げて酒瓶とグラスの集積を見ているとグルグルと視界が回る。頃合いか。この時間では地下鉄が動いているかも定かではない。地下鉄が動いていなければこの雪の中を歩いて帰らねばならん。このバーは帰路の途上にあるとはいえ、ここから自宅までは四十分か、四時間か、もうよくわからなくなっている。

 マスター、お勘定を。差し出された料金票をそんなもんだよねと首肯し、カバンから財布を取り出す。マフラーをふたたびグルグル巻きにし、コートを羽織り、カバンから出したサイフはそのままコートのポケットへ。ポケットがタバコとライターと財布とで不恰好に膨らんでしまった。
 カバンを手に下げ、少しよろけつつ出口に向かう。
途上でなにかにぶつかった気がした。壁ではない。柱でもない。無論椅子でもない。もっと柔らかなものだ。マスターが空席に会釈をしている。ぶつかった感触はなにかに似ていたなと感じたが思い出せない。傘立てから傘を取り、重たいガラス戸を少しだけ開けた。ふりしきる雪が店内に入ってこないよう配慮したつもりだった。
 ありがとうございました。おやすみなさい。マスターの声が聞こえた。ガラス戸越しに会釈する。マスターは最後も怪訝な顔をしていた。

 雪は相変わらず同じ調子で降り続いている。強くもならず、また弱くもならない。また手袋越しに指が冷たくなってくる。酒で暖めた身体が雪で冷やされてしまう。このままでは冷えと酔いしか身体に残らない。冷えと酔いは同居する。寒冷地に住む人間は酒で身体を暖めると訊いたことがあるのだが、わたしは寒さを酔いで誤魔化しているだけの強がりなのだと思う。暖まるのは幻想だ。寒い日に酔うといつもそう感じる。
 暖かくなるのは幻想だがいまここにある寒さと酔いは現実だ。
 地下鉄もやはり終電を過ぎてしまっていた。四十分だか四時間だか、とにかく歩かねばならない。片側四車線の通りであろうと人も車も通らばければ無意味だ。タクシーも通ってくれない。これでは歩かざるを得ない。

 まったく、忌々しい雪だ。寒いったらありゃしない。

 歩くこと十五分。コンビニを見つけた。丁度良い。寒さを凌ぐ為になにか暖かい飲み物を、明日の宿酔に備えてスポーツドリンクを買ってゆくことにしよう。
傘立てに傘を入れ、開いた自動ドアから店内に入る。雪が少々店内に入ってしまったがドアの開き加減を調整できない自動ドアだから仕方がない。飲み物売り場に行き、コーンポタージュとスポーツドリンクを手に取った。

 ……です。冬型の気圧配置が続き、東北から甲信越にかけては荒れた空模様になりそうです。一方で関東、特に南部は高気圧に覆われ、引き続き清々しい空模様になるでしょう。今晩の東京地方の天気は晴れ、明日も晴れの予想です。明日の最低気温は二度、最高気温は九度。空気が乾燥しています。火の取り扱いには充分に注意してください。
 店内のラジオが天気予報を流している。今目の前にある雪を全く無視した予報だ。

 ふとレジに向う途中。店の入口を見た。外は雪模様。わたしのコートも雪まみれ。ズボンも、靴も雪まみれだ。しかし店の入口は乾いていた。自動ドアにも一切の雪はついていない。

 自動ドアのガラスの向こうでは相も変わらず、水気を含んだ重い雪が降り続いていた。