``一意な文字列''

雑多な事柄

酒瓶を割る

 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ウイスキーの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、台所の冷蔵庫の脇に無造作につっこまれているビニール袋の中から二枚、厚手のものを引き抜く。瓶をビニール袋にいれ、瓶の首を掴み、部屋に戻る。もう一枚はあとで使うので空いた指にひっかけたままだ。
 なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ウイスキーを呷る。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ウイスキーの瓶は思ったよりも硬く、一発で粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ジャラジャラとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。張り付いたラベルで保持されている少し大きめの破片はうまく割れず、ペナペナと中途半端な音を立てている。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がチャラチャラと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、すこし咽せる。わたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。
 
 規範と信仰の世界にわたしは生きている。そう言ってしまうのは簡単であり、逃げでもある。なぜなら規範と信仰の二語で表現されるには世界はあまりに複雑であり混沌であり、単純ではない。自分自身の生きる世界を規範と信仰の二字で切り取ることしかできないのは虚しく、切ない。さらに醜いことに切り取った世界の中に自分自身を含めたり含めなかったり、都合よく調整している。規範と信仰に生きるときもあればそうでないこともある。世界はそんなにペラペラなものではなく、そんな事はわかっていると思いつつも気付くと立場をコロコロ変えている。わたしは世界を切り取りたく、世界に自分を切り取られたくないだけだ。他者の手の届かないところから他者を批評したいだけなのだ。愕然とする。哀しくなる。他者を批評などしたくなはない、そう嘯きつつも、結局は目に見える世界の中から規範と信仰を切り取り、ほくそ笑むことをやめられない。世界を切り取る自分にふと気がつくとつい歯軋りをし、拳を握ってしまう。自身に目隠しをし、猿轡を噛ませ、手足を縛り上げ、麻袋にでも詰め、殴る蹴るをしたい、そんな衝動に駆られる。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。その合間に生きている。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたジンに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ジンの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、厚手のビニール袋に空瓶を入れる。なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ジンを呷る。今日もこれで何杯目だろうか。もう数えていない。瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ジンの瓶は硬く、しぶとい。粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガチャガチャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。大きな破片が小さな破片になることはない。何度叩き付けても大きな破片はその大きさと形を維持し、小さな破片も同様だ。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、それでも何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がガチャガチャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ジンの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれ、二重にする。ふたたびショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ジンが喉を、胃を焼き、咽せる。咽せた拍子に逆流したジンが鼻に回り、くしゃみが出た。ジンの臭いがするくしゃみは最悪だ。わたしは最悪なくしゃみをしながら玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、まだいくつも積み上げられている。

 規範と信仰の世界にわたしは生きている。かつて有益な行動があった。行動をなるべく継続してゆこうと目標が立てられた。いつしか行動の継続が目標から必要にすりかわり、必ず達成すべきものと見做された。かくして行動は規範となった。規範となった行動にどのような効果があったのか、有益なのか無益なのか、それらが省みられることはいつしか無くなり、規範に忠実であることが求められ、かくして規範は信仰となる。世界が本当に規範と信仰なのか、実際のところわたしにはわからない。わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、それはあまりに矮小化された、願望や諦念を流し込んだ箱庭のようなものだ。わたしの切り取る世界はかくも単純であり、その単純な世界の一要素であるわたしの生活も規範と信仰だ。朝は早く起きねばならない。朝は近所の川縁を三十分程度散歩しなければならない。朝食は省略してもよいが昼食と夕食は自分で拵えなくてはならない。毎日少くとも二時間は紙の本に目を通さねばならない。日付を越える前に就寝せねばならない。もはや戒律である。わたしの切り取る世界は、生活は、かくもこうして窮屈だ。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。そうしてときどき宿酔で壊れる。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。ウイスキーの瓶はこれで空になった。まだ溢れない。空になった瓶を厚手のビニール袋で包む。テーブルの上にあるショットグラスを拾い、ウイスキーを呷る。ショットグラスの中身は半分程になった。口からウイスキーが溢れ、顎を伝い、シャツに少し垂れてしまった。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、ビニール袋に改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 柱は瓶を殴り付けてきたことで片側だけ丸く凹んでいる。わたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガシャガシャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。あらかじめラベルを剥しておいたことで瓶は速やかに破片になる。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がカシャカシャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、わたしは激しく咳込んだ。咳込みながらわたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、依然としていくつも積み上げられている。
 
 わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、そんな世界は時々崩壊する。外部要因でも崩壊するし、内部要因(つまりわたしの問題ということだ)で崩壊することもある。内部要因の主たるものは宿酔だ。フツカヨイ的の自責や追悔の苦しさ切なさを文学の問題にも人生の問題にもしてはならぬと坂口安吾は説いた。しかしつらいものはつらいのだ。わたしのつまらぬ世界も生活も、そのなにもかもを宿酔は吹き飛ばす。尊守すべき規範は宙へバラバラに打ち上げられ、維持すべき信仰は燃え尽きる。しかし宿酔は、酩酊は、その場限りの崩壊しかもたらさぬ。バラバラになり燃え尽きたわたしのつまらぬ世界や生活は宿酔が過ぎ去った後、ふたたび萌え出すのだ。そして規範と信仰の世界が復興したちょうどよい時期に、爆撃の如く、全てを吹き飛ばす為に酩酊がやってくる。宿酔がやってくる。ウイスキーとジンはわたしの世界を生活を壊滅させる為の爆薬だ。
 酒を飲み始める日、金曜日の夜は概ねこのような事を考えて過ごしている。そうして今日も冷凍庫から霜のついたジンの瓶を取り出し、蓋を開ける。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで、冷凍庫で冷やされたジンを注ぐ。よく冷やされたジンはトロリとした液体となり、ショットグラスをなめらかに満たしてゆく。ゆるゆるとショットグラスを縁いっぱいまで満たしたところで、ジンの瓶もちょうど空となった。零さないようにジンを啜る。冷えたジンが酔いの回った身体を冷やし、心地良い。口を離したところでショットグラスのジンは半分程になっていた。空になり、霜が取れて水滴のついた瓶を厚手のビニール袋で包み、瓶の首を握り、部屋の柱、片側だけ歪に凹んだ側とは逆の側へ、わたしは思い切り叩き付けた。
 瞬間、ジンの瓶はガシャンと一発で粉々に砕け、裾も腹も肩もなにもかも大小の破片となり、柱に叩き付けた勢いのままビニール袋を幾度も切り裂いた。厚手とはいえ強度を失ったビニール袋はボロボロになり、袋としての機能を果たさず、破片を部屋と廊下の一面へぶち撒けた。一部は勢いそのまま叩き付けた柱へそのまま突き刺さった。様々な大きさのガラス片が蛍光灯の光を反射し、床で、柱で、キラキラと光っている。わたしはボロボロになったビニール袋越しに、残ったジンの瓶の首を握り締めながら、砕け散ったかつて瓶だったガラスの破片達を見つめていた。
 しばらく呆然としていたが、やがて破片を掃除しなくてはと思い至り、砕いた瓶を二重に包むため部屋の片隅に投げておいた袋を手にとった。ボロボロの袋と瓶の首を新しい袋にいれたとき、指と掌から出血していることに気が付いた。ガラス片がぶち撒けられた際に切ったのだろう。破片が突き刺さったままということはなかったので、大判の絆創膏を貼っておいた。少し深く切ったのだろう、また酔っ払っている為でもあるのだろう、出血は止まらない。あとで絆創膏を貼り替えなくてはならない。悪態を吐きながら、わたしは床に血が落ちないよう注意しつつ、また無事な指や掌を切らないように注意しつつ、ガラス片を拾い集めていった。
 破片をすべて拾い集めるころには、カーテンの向こう、窓の外は明るくなってきていた。夜が明けつつあるのだ。絆創膏は結局二回貼り替えた。ショットグラスに残ったジンを一気に飲み干し、わたしは破片が残っていないか注意しつつ部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。しかし今日は燃えないゴミの収集日であるので、この積み上げられた元瓶達は処分しようと思う。酔いはすっかり醒めていた。飲み干したジンが効力を発揮することは無いだろう。