``一意な文字列''

雑多な事柄

読んだり観たりしたやつ (2024-08)

読んだやつ

カンガルー日和 (講談社文庫)
羊男が出てくるやつが好き。

9/3 追記;まだあったのを思い出した

男はなぜ孤独死するのか
孤独死というよりは孤独によって死にがちなのは何故かということを扱ったものと読んだ。自分以外の存在(これは他者というだけでなく動物や自然やその他諸々、外界と言ってもよいかもしれない)を軽く見過ぎなのが男で、加齢にしたがいその軽く見てきた有象無象が牙を剥く。正確には牙を剥くどころではなく、何もされない。そう、何もされないのだ。無関心は無関心によって攻撃されるか。軽く見過ぎた物の代替として何を獲得するかといえば仮想(imaginary も virtual も含みます)のもので、仮想のものはだいたい仮想に終わる。大変身につまされながら読んだ。読んだあと本棚に仕舞うのも忘れて、本を抱えてしばらくオロオロしていた。

観たやつ

アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲 (吹替版)
iPhone を脱獄すると爆殺される世界でノキアiPhone を爆破して勝利する。最高だった。ナチスどこいったんだと思ったが、初代があまりにもきちんとナチス(というより SS)をやっていたほうが奇跡なのだろう。

ノーカントリー (字幕版)
もうずっとカラッカラに乾いている。ダクトテープと糸鋸とアスピリンで大体の課題を解決してゆくが、限界もある。戦争なので人がどんどん死んでゆく。狂気は反省もしないし、買収もされない。狼狽もしない。狂気は概念だからだが、この映画では狂気は受肉しているので、散弾銃で撃たれて負傷する。しかし狂気なので自分で手当てする。

セブン (字幕版)
ずっと雨が降ってて可哀想。ずっと陰惨で可哀想。ブラッド・ピットが泣く映画ということで観たのだが、特に矛盾なく泣くので、自然な(連続な?)泣きだった。
追記:これ前にも観てここになんらか書いた気がしてきた

怒り
怒りにも様々なものがある。様々なものに由来する。曰く、無力感、疎外感、理解されなさ、諦め、呆れ、侮蔑。間の当たりにしている現実と自身に出来ることとのギャップに対する反応のひとつといっても良かろう。ギャップに対し共感性を持ってくれる他者が入れば怒りはコミュニケーションの中で別ものに昇華し、そうでなければ先鋭化し、破裂する。昇華も破裂も、結果として怒りを抱いた当人の幸福になるか否かは別の問題で、怒りは動機でしかなく、結果ではない。

日本で一番悪い奴ら
案外普通だった。取締る対象を自ら手配して自ら摘発するの、ペイするのだろうか。しないから没落してゆくのだろうな。たけきものもつひにはほろびぬ。

読んだり観たりしたもの (2024-07)

読んだもの

戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち
今年の春先に精神的に参っていた時期があってその時に書評を読み、これは確実に最悪な気分になる本なので読もうと思って積んでいた。
最悪な気分にはなった。絶望感が溢れる方向の最悪な気分だ。
独ソ戦の民間人の被害(とりわけ女の被害)を赤軍由来のものしか普段意識していなかったことに気付いた。双方ともにかなりのものがあるというのは知識としては知っていたのだが。どっちもやることはやっていて、滅茶苦茶で、最悪だ。そしてそういう滅茶苦茶や最悪をそう言うだけで片付けてはならず、何が起きていたのか、どうして起きたのか、そういったことを呆らかにしておくことが再び滅茶苦茶や最悪の絶望に至る可能性を減らすことに繋がる。そのための仕事のひとつとしての著述であり研究だ、そう思った。

ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤 (ハヤカワepi文庫)
パッサパサに乾燥している。何を言っているのか解らん間に人間が大量に殺されてゆく。そして殺した人間をバラバラに解体し、そいつを資材にする、着飾る。そして悪臭にまみれる。そんなことを続けながら延々と荒野を進んでゆく。
何を読んでいるのか解らなくなったが、これは『白鯨』でいう海が大陸で鯨が人間存在なのだみたいな解説があり、ああこれは白鯨なんだとなり、ようやく落ち着いた。解ったとは言わない。だって白鯨だってよくわかんねえまま圧倒されて終わっちまったもの。

QJKJQ (講談社文庫)
軽い気持ちで読み始めたら一日中読み耽って一気に読了してしまった。面白かったのだが、どうにも印象に残らない。世界観の背景についての理屈をしっかり肉付けした狂気太郎(『不安』あたりの頃の作風の時期を思い浮かべている)っぽいというのがしっくりくる読後感だった。『テスカトリポカ』のようにこれどうなっちゃうのと不安になるまで大風呂敷を広げるようになるのはここでは無かった。これも読み易い印象の補助になったと思う。

Ank : a mirroring ape (講談社文庫)
かなり好き。洛中が壊滅するあたり書いてて絶対に楽しかっただろうな。読んでいる側はニコニコしながら読んだ。人間とそれ以外を分かつのは恐怖への対抗と再現性の担保と自己と虚像との間にあるものへの客観性の獲得とがあるというのが骨格にあるみたいな感じだったと思うが、それ以上に人間が人間性を喪失して無尽蔵な暴力を手にした存在になり無茶苦茶をやる、そしてその暴力が洗練されてゆき、これが進歩だとというのは、こう、ええっと、やっぱり、楽しいですね……。

ムーン・パレス(新潮文庫)
出会いと別れ、金満と窮乏、これらがグルグル廻ってゆく。よい読後感だった。それにしてもアメリカってのはデカいな。アメリカの物語はアメリカ大陸のデカさに立脚しているな。『ブラッド・メリディアン』を読んでいても思った。

忘れられた日本史の現場を歩く
土地にそれなりの規模の人間が住み、暮らし、戦い、死に、去る、そうすれば記録が残り、それが歴史になる、そういった基本的なことに気付かされた。

観たもの

七人の侍
Amazon の Prime Video で観た。音が悪すぎた。登場人物が何を喋っているのか一切判らなかった。いつか 4K リマスター版を観てリベンジしたい。大群に圧倒されすり潰されながら最善を尽くしてなんとかしてゆくみたいな物語を期待して観たが、そういうのではなかったと思う。

蜘蛛巣城
これまで生きてきて芝居や演劇を観に行ったことが無いのだが、きっと観劇というのはこういった感覚なのだろうなと思った。映画というより舞台芸術という感じだった。妻が狂乱して手を洗いまくるシーン(思っていたより大人しい感じだった。狂乱に絶叫は必ずしも付属しないというのに気付くのは観た後だった)と主人公が滅多矢鱈に矢が射られまくってハリネズミになる(これもそんなではなくトドメの一発が決まるまではジワリジワリ傷付けられるだけな感じ)ラストシーンが観たかったので満足。しかしこれも Amazon の Prime Video で観たのだが音声が荒い。三船敏郎が何を言っているのか全く判らん。しかしそれを補うのには充分なほどの異様な眼光だった。異様な眼光の登場人物がいる映画は大体好きだ。

読んだり観たりしたやつ (2024-06)

読んだやつ

利己的な遺伝子 40周年記念版
伊藤計劃の典拠のひとつに触れられたという強い感触があった。嬉しい。
俺の闘争というものがこの本の文脈において有ったとして、きっとそれは gene ではなく meme をめぐる闘争になるのだろう。しかし生存機械の意思など gene や meme もどっちも知ったことではない。どちらがどちらを利用するかされるかではなく、別物なのだ、何もかも。そんなこんなでミームの章が読んでて一番面白かった。

箱男(新潮文庫)
後述の『関心領域』を観に行ったときに映画館内で宣伝されていたので気になった。見る見られる、次いで書く書かれるという視点の変遷。読者に手を出せる何らかの手段があったならきっと読む読まれるという視点の変遷まで進行させただろう。映画だとそこまでやっていたりするのかな。少し気になる。

ヴィクトリア朝時代のインターネット (ハヤカワ文庫NF)
インターネットが一世紀前に有ったのも面白いがハッカー文化みたいなものも一世紀前に有ったようなのが更に面白かった。才能の集まる環境の振舞いは時代を問わず似てくるものなのだろうか。あるいはコミュニケーションの距離の近さも要因のひとつだったりするのだろうか。

観たやつ

happinet-phantom.com
映画を観てきた。ヘスは SS 中佐なのに階級章がずっと SS 少佐なのは何故だろう。SS 少佐から SS 中佐に昇進したみたいな描写もないので、たぶんこれは考証ミスだと思う。

ヘスはこの映画では成功した企業幹部のようなもので、裕福だが凡庸な生活と業務面での有能さが淡々と描かれてゆく。
ヘスが属する企業の事業である最終解決のプロセスは単なる日常風景でしかない。収奪も土産物が運ばれてきた程度でしかない。人が大量に死んでゆくということに関心がない。凡庸な生活の中それは一切言及されない。何も無いかのようだ。しかしそれは起きている。延々と。昼夜問わず。ヘスとその家族は最終解決という事業がおこなわれる世界観においては「貴族」であって、ゆえにその世界観に馴染めない「平民」であるヘートヴィヒの母はその世界観から繰り広げる日常に耐え切れず、逃げ帰ってしまう。
関心のない領域を無きもの扱いにするというのはナチの時代も現代でもさほど変わらない。現代のアウシュヴィッツの施設清掃シーンはヘスが未来から裁かれる点、手前ら現代に生きる者共もヘスの家族と変わんねえぞという点、そしてアウシュヴィッツという場所がもはや記録と観光という方面での「関心」で扱われる領域になったという点、その3点での批判的なメッセージを込めていると思った。最後の点の解釈はちょっとどうかと自分でも思うのだが、映像的には少なくとも肯定的な印象は受けなかった。

映像的にはだいたいのシーンがキューブリック的な一点透視の映像で、『シャイニング』を観ているかのような緊張感がずっとあった。今にして思うとこれは「関心」の視点をヘスやその家族と一体化させる為のもの、関心の及ばない領域に重要なものがあるのだがあえてそこを落とすための技法だったのだなと思った。

SWALLOW/スワロウ(字幕版)
酒席で友人に薦められて。
異食症の話とのことだったが、ビジュアル面でのショッキングさはあるものの異食症は物語の本質でなく表現手段として選ばれただけで、呪いと痛みと苦しみのほうが物語の本質だと思った。異食症を描く為の呪い痛み苦しみなのではという見方も出来るが、物語のオトし方的にそうではなかろう。
元々主人公が抱えていた呪いが境遇由来の別の呪いと合わさって増幅され、抱え切れないほどに呪いが溢れ、痛みと苦しみと化し、そいつをどうにかする(かつ痕跡が残らぬように)為に逃げ込んだ先が異食症だった。当初は解放感があったはずのそれがいつしかそれ自身が痛く苦しくなり、呪いも広がり、最後は全ての呪いと決別する為の戦闘をするに至る。しかし痛みと苦しみは最後まで有る。ジットリとした重い映画だった。

読んだり観たりしたやつ (2024-05)

読んだやつ

異文化コミュニケーション学 (岩波新書 新赤版 1887)
韓国ドラマが面白い、何が面白いかというとリアルに基づくコミュニケーションの写実性の高さとその描き方のうまさだ、これを題材にコミュニケーションを議論してみよう、といったもの。COVID-19 の副産物が面白さに気付く切っ掛けだったとのことで、疫病は本当に文化にも影響を刻み込んでくるのだな。共感というのは他者に寄り添い同化するというもので、どうにも耳が痛かった。

言語哲学がはじまる (岩波新書)
これを読んでから論理哲学論考を読めばよかったな。知らない分野の文章を読むときは先達があったほうがよいという学びを得た。

炒飯狙撃手 (ハーパーBOOKS)
読んでてお腹が空いた。

観たやつ

ゴジラ-1.0
銀座が吹き飛ぶシーンが庵野爆発だったので感動してしまった。一方でわかりやすい物語だなあと思った。わかりやすい物語を摂取するとどうにも不安になる。本当にこれでよいのだろうかといった気分になるためだ。
バラバラの人々が家族として一緒に生きてゆくことの情緒や困難さ、生きねばならぬといった態度、罪悪感を抱え傷付いた人間が苦しみもがく事とそれに対しての救済、そんな感じのものをうまくパッケージ化した物語で、時代精神に見当った感じだ。秀作だと思った。

読んだり観たりしたやつ (2024-04)

あんまり本を読めていない自覚がある。本を読めていない時期は目に見えて不調になる。本が読めないから不調なのか不調なので本が読めないのか、どちらかなのは判らん。

読んだやつ

細雪 (中公文庫 た 30-13)
大阪言葉というものを知りたくて読んだのだが、どうも当初の目的を果たせのかどうか。
まだ家格というものがあった時代に没落した旧家が「商品」を捌けず、そのいっぽうで庶民に至ることも出来ず、どんどん身を持ち崩してゆく、そんな感じの物語かと最初思っていて、20% くらいはこの解釈で合っていそうな感じはした。けれども家格の中にはきちんと「人格」を供えた者共が居り、者共が互いの利益に沿うようなだめてすかしてやりあいをしつつ、それらの合間に京阪神の美しい景観が流れてゆく、京阪神に比べて横浜以東はなんだが陰惨でホコリっぽい土壌だというのが繰り返される、そんな感じだった。
いちばん面白く感じたのは阪神大水害のシーンだったのでわたしは平家物語を読んでいたころからあまり感性が変わっていない。

モモ (岩波少年文庫)
読書遍歴がおおむね飲酒と共にはじまっていて、これまで児童文学のようなものを読んだことがなかった。それってどうなんだろうと思い読むことにした。
読んでて乾いた笑いが出ることが多々あった。清潔で効率的で功利的な世界には秩序のほうが余裕よりも重要視され、自由に遊んだり自由にボンヤリすることもやりづらくなる。出来ないわけではないのがまた小賢しい。
別にこの本は残酷な文学(村上龍ウエルベックあたりを念頭に置いて書いているがもっとマトモな形容があるとは思う。うまいやつが浮かばなかった)ではないので幻想的な手法でもって「現代社会」は救われるのだが、我々はモモの居ない世界に居て、どうすればよいのだろうか、そういった方面にはこの物語は何も意見を提出しない。わずかであっても我々自身がモモになるしかないのだろう。世界の捉え方の一助を示すというのが児童文学のもつ役割のひとつなのかしらん、と思った。
残酷な物語はいっぽうで世界を解釈し、何も助けない。何も助けないことが救いになることもある。わたしは少なくとも救われたと感じた。なのでわたしは飲酒と共に本を読みはじめたんだと思う(と言いつつウエルベックと出会ったのはつい最近なんだけどな)。

観たやつ

絶対に好きになるか極端に嫌いになるかのどちらかだろうなと思っていて怖くて観れてなかった。勇気を出して観に行ったら前者に転べたのでよかった。
変わらない日常に見えても色々なものが変わりゆくのが日常というもので、その中の些細な出来事に喜びや充足感を見出すという風景を淡々と描くという感じか。『ヨコハマ買い出し紀行』的な物語だと思った。

読んだもの (2024-03)

面白い本を読めた一ヶ月だった。

人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)
面白かった。『ハーモニー』だった。文中で言及されないのが不思議なくらい『ハーモニー』だった。
もっとも現実は『ハーモニー』ではないので大災禍は起きず、未来像の考察にはホモ・エコノミクスを出発点としてこれが文化の発展と自己家畜化(なんだか強烈な語だが専門用語なだけなのだった)をもたらし、エコノミクスの先に人間は進もうとしており云々という感じだった。そこで巨大な政治機構が前提になっていたのだが、政治の仕組みがこの先も "Gewartmonopole" で居られるのだろうか、その前提は大丈夫なのだろうか、という違和感を抱いた。

エロティシズム (ちくま学芸文庫)
『すべての男は消耗品である』由来。読むのに時間をかけすぎ、読んだなあ、程度の感想しかない。
生きるというのは制約条件を満たしながらの活動の連続で、その制約条件からエロティシズムが見出せ、時代や集団や社会や文化で制約条件は変わるのでエロティシズムも変わる、サド侯爵はその「制約」からの脱出をやっていこうとしたパイオニアだったのですごい、みたいなもんか。最後のサド云々は本当にこんなこと言っていたかまったく自信が無い。

チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク (竹書房文庫)
原題は "TIK-TOK" だけなのになんでこんな凄まじい邦題になったのか、解説まで読んでもよくわからなかった。装丁ありきだったのかしらん。筒井康隆的なノリがずっと続く感じのやつだった。

太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか
面白かった。こういう真実がどうとかいう本に近寄っては駄目だと思ってきたのだが、粗筋を読んでみたらしょっぱそうなエピソード集という感を得たので読んだ。『シビリアンの戦争』よろしく現場が一番苦労し民間人も為政者も指導層も現場の苦労というやつを意識しないか出来ないか、そういった気苦労や怒りや嘆きや悲しみを当事者が吐き出す、戦争という現実の記録だった。

とるにたらないものもの (集英社文庫)
泥酔して襲撃に及んだ友人宅の本棚をひっかきまわしていたら出て来、パラパラめくっていたらショートピース(普段これを主にふかしている)がどうこうという断章を目にし、読んでみようと思った。共感性の高い小さくてやわらかく、かつ素朴、そんな感じの観察文の詰め合わせという印象だった。小さい鞄みたいなやつと陽の長さがどうこうみたいなやつが好き。ショートピースのやつは改めて読んでみたら普通だった。

実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方
『人間はどこまで家畜か』由来。面白かった。ボトムアップのしたたかさとトップダウンの強権とのうまいバランスをやっていくのがアナキズムという考え方からの現代への応用だ、という感じと読んだ。理屈や道具をあまりにも素直に実世界に適用するな、そういう失敗は歴史でさんざんやられているぞ、というメッセージもあるかしらん。

読んだり観たりしたもの (2024-02)

もう増えないので書く。課題消化の一ヶ月だった。そのわりにはあんまり読めてない。

読んだもの

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)
課題図書。面白かった。もうちょっと早くに読んでおけばよかったと思うが、学生時代に読んでいたら妙な勘違いをしてしまったと思うので、労働生活に入ってから読むのが良さそう(労働生活に入るということの是非はここでは考えない)。
これを読むことで課題図書がベラボウに増えてゆく臭いがしたのだが、初手のマックス・ウェーバーが古本のかなり古い訳のやつしかなかったので、その臭いは立ち消えることになった。助かったのか、損をしたのか、よくわからない。

観たもの

ブリキの太鼓 [ディレクターズ・カット版] (字幕版)
SA と SS と国防軍との制服が混同されていた。それはともかく、ずっと課題映画だったので、やっと観れて嬉しい。

性と政治とを延々やっている人々(大人)を部外者(子供;ただしエクスキューズ付き)が見ていてたまに台無しにする、しかし個人の台無しスキルは戦争に至ると暴力性を発揮できず、性と政治とを延々やっている人々の世界に入ってそいつらと同じことをする羽目になる。
登場人物の感情の変動がだいたいセックスで上塗りされるみたいなすごい描かれ方をしていて、これきっと人間嫌いの人が物語を書いたんだろうなと思った。本当かどうかは原作を読まねばなるまい。
最後のオスカル「少年」が自立(とまでは作中では言っていないが、ほぼそうだろう)を志すシーンは中々キモく、もう誰も俺のことを世話してくれねえんだもん、仕方無えや、といったもので、いやしかし自立とはそういった状況に至って仕方無くなされるような気もし、つまり大方の自立というものはキモい(なんかすごいことを書いてしまったような気がしてきた)。ただし自立を志せるだけマトモなのかもしれない。

なお小説のほうも課題図書なのだが絶版だったように思う、が、今調べたら普通に売ってた。そのうち読む。


ディパーテッド (字幕版)
原作を同じくする本邦の地上波ドラマ版を先に観てしまっていて、同じ描写があるということはこれは原作のほうでもあったんだなあ、みたいな振り返り的な見方をしてしまった。先にこっちを観ていたらきっと感想も変わったろう。
結末は本邦ドラマ版のほうが私的に好み。救われないまま長く苦しんで生きろというオチと解釈している為。こちらの場合は罪は罰せられた的な感じになってしまっていて、終わり方が綺麗すぎると思う。