``一意な文字列''

雑多な事柄

読んだり観たりしたもの (2021-05)

あと一日とそこらでは増えないのでもう書く。

読んだもの

オン・ザ・ロード (河出文庫)


北米大陸の広大さとイカれ具合に運と狂気で立ち向かう人々の物語という感じで、ものすごい疾走感があった。しかしこの疾走感を最後まで維持できたのはディーンだけだった。『大人』(あとがきを考慮すると『つまらない知識人』というべきか)になってしまうことの寂しさ、切なさがここにもある。

ルポ川崎 (新潮文庫 い 139-1)
なんだかものすごく懐かしい気持ちになった。と思ったら解説で見知った地名がでてきて笑ってしまった。かくあった時期を懐かしく感じたり気軽に笑える境遇に落ち着けてよかったと思う。

やし酒飲み (岩波文庫)
読むアルコール。文体も世界観もキャラクターも全部イカれてて、神話的な世界とはかくもこう不条理なのか、どうして解説でカフカ(読んだことないけど)と比較されるわけだ、と感動を覚えつつもラリッた感じもなりそうでこわかった。
ある島の可能性』でパスカルキリスト教にぞっこんだったのはキリスト教がブッ飛べる (high-dope) からだみたいな一節があり、聖書方面なのか教義のほうなのか知らんが、神話的な世界でブッ飛べるというのは確かにそうかもしれないなと思った。

JR品川駅高輪口 (河出文庫)
『JR 上野駅公園口』はシリーズものだったのかと驚きつつ。字下げがやたらとあるとわたしは非常に困惑してしまうのだなとわかった。
憎悪に満ちた著者の世界観を今回は孤独と希死念慮のかたちで絞り出してみました、といった感じ。ただしこちらは愛していた祖母の導きで自死を断念し、残酷な社会の中で絶望しながらも死なずにいようとしたところで救いの手が差し延べられる、といった救済があり、思想性を少し曲げてでも生に可能性を示したかったのだなと思った。

JR高田馬場駅戸山口 (河出文庫)
ゆ虐 SS を読んでいるかのような気色悪さ、気味悪さ、人間への憎悪、パラノイア、ヒステリー、他者を操作できるという傲慢さ、云々、やたらめったらに傷をつけまくる。
上野駅』、『品川駅』、そしてこの『高田馬場駅』を通しての感想だが村上龍にでてくるような世俗的な感じをじっくり煮詰めて憎悪と混ぜてよく練り、閉塞感で包みました、という物語だ。思想性が強力すぎ、釣り針が頬に突き刺さったままリールを巻かれてゆく感じの痛みがある。クセになる。すごい作品群だと思う。

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)
結びのひとことがとてもよかった。内容はだいたい忘れた。

ポストコロナのSF (ハヤカワ文庫 JA ニ 3-6)
『オンライン福男』と『愛の夢が』好き。

観たもの

モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル (字幕版)
モンティ・パイソンだった。いやそれはそうなのだが。でもやっぱりモンティ・パイソンだった。

ギャング・オブ・ニューヨーク(字幕版)
ゴア描写がすごかった。群集の真っ只中で砲弾が炸裂すると何が起きるかがよくわかる。登場人物がだいたい『血と骨』の金俊平みたいな感じで観てて疲れた。

新幹線大爆破 [DVD]
ちょっと前に『監督不行届』を読み、長年の宿題としてこいつがあったのを思い出したので。
タイトルの入り方が『激動の昭和史 沖縄決戦』のそれとほぼ同じやりかたで笑ってしまった。物語はまあ普通だが『天国と地獄』でもまあ普通みたいなことを書いてしまった記憶があるので、こういう類の物語をうまく処理できない何か妙な習性がわたしにはあるのかもしれない。

トレインスポッティング(字幕版)
ラリッて狂って起訴されてヤク抜いてカタギになるが逆戻り、しかし脱出の道が開け、"So it does"。教育的な映画だと思った。

T2 トレインスポッティング (字幕版)
こっちのほうが好き。過去のしがらみから抜け出せなかった彼らがそれぞれのやりかたで過去にケリをつけてすこしだけ前に進む、といった感じか。ちょっと綺麗に書きすぎたかもしれない。

楽園追放 Expelled from Paradise【完全生産限定版】 [Blu-ray]


零下堂キアンさんみたいな台詞がでてきて大興奮してしまいそれ以降がわりとどうでもよくなってしまった。反省している。地上で生きる彼女の身体はこれからも変化してゆくのだろうか。恒常性を放棄した苦しみを楽しんでいってほしい。

酒瓶を割る

 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ウイスキーの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、台所の冷蔵庫の脇に無造作につっこまれているビニール袋の中から二枚、厚手のものを引き抜く。瓶をビニール袋にいれ、瓶の首を掴み、部屋に戻る。もう一枚はあとで使うので空いた指にひっかけたままだ。
 なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ウイスキーを呷る。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ウイスキーの瓶は思ったよりも硬く、一発で粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ジャラジャラとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。張り付いたラベルで保持されている少し大きめの破片はうまく割れず、ペナペナと中途半端な音を立てている。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がチャラチャラと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、すこし咽せる。わたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。
 
 規範と信仰の世界にわたしは生きている。そう言ってしまうのは簡単であり、逃げでもある。なぜなら規範と信仰の二語で表現されるには世界はあまりに複雑であり混沌であり、単純ではない。自分自身の生きる世界を規範と信仰の二字で切り取ることしかできないのは虚しく、切ない。さらに醜いことに切り取った世界の中に自分自身を含めたり含めなかったり、都合よく調整している。規範と信仰に生きるときもあればそうでないこともある。世界はそんなにペラペラなものではなく、そんな事はわかっていると思いつつも気付くと立場をコロコロ変えている。わたしは世界を切り取りたく、世界に自分を切り取られたくないだけだ。他者の手の届かないところから他者を批評したいだけなのだ。愕然とする。哀しくなる。他者を批評などしたくなはない、そう嘯きつつも、結局は目に見える世界の中から規範と信仰を切り取り、ほくそ笑むことをやめられない。世界を切り取る自分にふと気がつくとつい歯軋りをし、拳を握ってしまう。自身に目隠しをし、猿轡を噛ませ、手足を縛り上げ、麻袋にでも詰め、殴る蹴るをしたい、そんな衝動に駆られる。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。その合間に生きている。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたジンに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ジンの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、厚手のビニール袋に空瓶を入れる。なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ジンを呷る。今日もこれで何杯目だろうか。もう数えていない。瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ジンの瓶は硬く、しぶとい。粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガチャガチャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。大きな破片が小さな破片になることはない。何度叩き付けても大きな破片はその大きさと形を維持し、小さな破片も同様だ。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、それでも何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がガチャガチャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ジンの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれ、二重にする。ふたたびショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ジンが喉を、胃を焼き、咽せる。咽せた拍子に逆流したジンが鼻に回り、くしゃみが出た。ジンの臭いがするくしゃみは最悪だ。わたしは最悪なくしゃみをしながら玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、まだいくつも積み上げられている。

 規範と信仰の世界にわたしは生きている。かつて有益な行動があった。行動をなるべく継続してゆこうと目標が立てられた。いつしか行動の継続が目標から必要にすりかわり、必ず達成すべきものと見做された。かくして行動は規範となった。規範となった行動にどのような効果があったのか、有益なのか無益なのか、それらが省みられることはいつしか無くなり、規範に忠実であることが求められ、かくして規範は信仰となる。世界が本当に規範と信仰なのか、実際のところわたしにはわからない。わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、それはあまりに矮小化された、願望や諦念を流し込んだ箱庭のようなものだ。わたしの切り取る世界はかくも単純であり、その単純な世界の一要素であるわたしの生活も規範と信仰だ。朝は早く起きねばならない。朝は近所の川縁を三十分程度散歩しなければならない。朝食は省略してもよいが昼食と夕食は自分で拵えなくてはならない。毎日少くとも二時間は紙の本に目を通さねばならない。日付を越える前に就寝せねばならない。もはや戒律である。わたしの切り取る世界は、生活は、かくもこうして窮屈だ。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。そうしてときどき宿酔で壊れる。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。ウイスキーの瓶はこれで空になった。まだ溢れない。空になった瓶を厚手のビニール袋で包む。テーブルの上にあるショットグラスを拾い、ウイスキーを呷る。ショットグラスの中身は半分程になった。口からウイスキーが溢れ、顎を伝い、シャツに少し垂れてしまった。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、ビニール袋に改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 柱は瓶を殴り付けてきたことで片側だけ丸く凹んでいる。わたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガシャガシャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。あらかじめラベルを剥しておいたことで瓶は速やかに破片になる。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がカシャカシャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、わたしは激しく咳込んだ。咳込みながらわたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、依然としていくつも積み上げられている。
 
 わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、そんな世界は時々崩壊する。外部要因でも崩壊するし、内部要因(つまりわたしの問題ということだ)で崩壊することもある。内部要因の主たるものは宿酔だ。フツカヨイ的の自責や追悔の苦しさ切なさを文学の問題にも人生の問題にもしてはならぬと坂口安吾は説いた。しかしつらいものはつらいのだ。わたしのつまらぬ世界も生活も、そのなにもかもを宿酔は吹き飛ばす。尊守すべき規範は宙へバラバラに打ち上げられ、維持すべき信仰は燃え尽きる。しかし宿酔は、酩酊は、その場限りの崩壊しかもたらさぬ。バラバラになり燃え尽きたわたしのつまらぬ世界や生活は宿酔が過ぎ去った後、ふたたび萌え出すのだ。そして規範と信仰の世界が復興したちょうどよい時期に、爆撃の如く、全てを吹き飛ばす為に酩酊がやってくる。宿酔がやってくる。ウイスキーとジンはわたしの世界を生活を壊滅させる為の爆薬だ。
 酒を飲み始める日、金曜日の夜は概ねこのような事を考えて過ごしている。そうして今日も冷凍庫から霜のついたジンの瓶を取り出し、蓋を開ける。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで、冷凍庫で冷やされたジンを注ぐ。よく冷やされたジンはトロリとした液体となり、ショットグラスをなめらかに満たしてゆく。ゆるゆるとショットグラスを縁いっぱいまで満たしたところで、ジンの瓶もちょうど空となった。零さないようにジンを啜る。冷えたジンが酔いの回った身体を冷やし、心地良い。口を離したところでショットグラスのジンは半分程になっていた。空になり、霜が取れて水滴のついた瓶を厚手のビニール袋で包み、瓶の首を握り、部屋の柱、片側だけ歪に凹んだ側とは逆の側へ、わたしは思い切り叩き付けた。
 瞬間、ジンの瓶はガシャンと一発で粉々に砕け、裾も腹も肩もなにもかも大小の破片となり、柱に叩き付けた勢いのままビニール袋を幾度も切り裂いた。厚手とはいえ強度を失ったビニール袋はボロボロになり、袋としての機能を果たさず、破片を部屋と廊下の一面へぶち撒けた。一部は勢いそのまま叩き付けた柱へそのまま突き刺さった。様々な大きさのガラス片が蛍光灯の光を反射し、床で、柱で、キラキラと光っている。わたしはボロボロになったビニール袋越しに、残ったジンの瓶の首を握り締めながら、砕け散ったかつて瓶だったガラスの破片達を見つめていた。
 しばらく呆然としていたが、やがて破片を掃除しなくてはと思い至り、砕いた瓶を二重に包むため部屋の片隅に投げておいた袋を手にとった。ボロボロの袋と瓶の首を新しい袋にいれたとき、指と掌から出血していることに気が付いた。ガラス片がぶち撒けられた際に切ったのだろう。破片が突き刺さったままということはなかったので、大判の絆創膏を貼っておいた。少し深く切ったのだろう、また酔っ払っている為でもあるのだろう、出血は止まらない。あとで絆創膏を貼り替えなくてはならない。悪態を吐きながら、わたしは床に血が落ちないよう注意しつつ、また無事な指や掌を切らないように注意しつつ、ガラス片を拾い集めていった。
 破片をすべて拾い集めるころには、カーテンの向こう、窓の外は明るくなってきていた。夜が明けつつあるのだ。絆創膏は結局二回貼り替えた。ショットグラスに残ったジンを一気に飲み干し、わたしは破片が残っていないか注意しつつ部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。しかし今日は燃えないゴミの収集日であるので、この積み上げられた元瓶達は処分しようと思う。酔いはすっかり醒めていた。飲み干したジンが効力を発揮することは無いだろう。

読んだもの (2021-04)

5月になってしまった。5月になってから読み終えたものを含みます。

危険な関係 (角川文庫)
同じようなことを延々とよくやるなと最初はとっつきづらかったのだが、ヴァルモン子爵とメルトイユ侯爵夫人は恋(というより篭絡だな)というゲームをやっているのだと捉えてからは読み易くなった。もっともだいぶ話が進んでからそこに気付いたのだが。
死してもなおゲームには負けない。ゲームのプレイヤーとしての気概を感じた。

統治と功利
『闇の自己啓発』の中で『ハーモニー』の原作のひとつと言及されており、気になったので。


上の発言のとおりで第 III 部まではクリプキやら何やら(全部忘れた。クリプキだけ円城塔あたり由来で辛うじて記憶の片隅に引掛った)で結論の為の積み上げをしているのだなくらいの感想しかなく、第 III 部からああ確かにこれはハーモニーの理論的な到達目標だ、となった。この本の読み手の態度としては完全に失格だと思う。

文字渦(新潮文庫)
5月に入ってから読み終えた。
文字を俎上にした悪ふざけ。本文とルビが乖離したせいでルビが信用できなくなったのはかなり厳しい読書体験(褒め言葉)だった。他の本を読むときにもこの影響を未だにひきずってしまっている嫌いがあり、なんという後遺症だと嘆いている。

アンネの日記 増補新訂版
5月に入ってから読み終えた。
「潜行」の生活であっても「生活」ではあるのでメシを食わなきゃいけないし排泄もしないといけない。食べ物は腐るし水洗便所が故障したらそれはもう酷いことになる。そして「生活」の空間が非常に限られたなかで人間がひしめきあって過ごすわけで、それはもう酷いことになる。群像劇として読んだが、これは日記なので日記として読むべきだったのだろうなと思った。

読んだり観たりしたもの (2021-03)

今月はあまり新規に摂取したものがない。手をつけた本はあるが読み終えてはいない。
月の半ばからはずっとウエルベックを読み返していた。『闘争領域の拡大』がかなりよかった。なんだろうこれは、どうすればいいんだろう、どうすればいいの? という、痣をつけてくる物語だ。

それはともかくとして。

読んだもの

東京都戦災誌
まあいつものように表紙をボンと乗せられるようなものではないよな。そして読了したというものでもないとは思う。
2年くらい前に物欲が爆発して購入したものを今年の始めから手をつけてやっと読み終えた。
たかが記録、されど記録。「戦災」誌なので戦災の記録だけと思っていたが、戦争のはじまりから終わりまで東京市東京府、最後は東京都になるけども、とにかく帝都を担う行政が戦争という事業にどのように取り組み、何ができて何ができなかったかが大量の活字で流れ込んでくる。下手な物語は記録の前には無力だ。


ちなみに付録の地図(東京市域と八王子方面の爆撃の被害状況)だけでも圧巻なのだが、この本を読み終えた後日にすみだ郷土文化資料館に行ってみたところ、この地図も実は正確な被害状況を示しているものではない、ということを知った。詳細は今でもなお不明であり調査中なのだそう。戦争というのはわからないことだらけだ。

観たもの

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』
映画を観ました、ということが言いたかった。Komm, suesser Tod のない旧劇だった。
惣流アスカを除いて登場人物にある程度の救済が与えられていて、これで物語も人物も完済したのだろう。
人類補完計画の発動以後は映像と演出が凄まじいことになっている以外は親子の対話を通じてという差こそあれ旧劇に沿った進行と描写と展開で、一部その中で式波ではなく惣流のほうのアスカとみられる救済の描写もあったが、得体の知れない怪物共に集団で滅茶苦茶にされて喰い散らかされた後に与えられる救済にしては「ゴメン」の一言、それも25年越しに一言ってひどすぎないですか(わたしは惣流アスカをかなり贔屓している)。
まあ TV 版 / 旧劇 / 新劇と通じてアスカは総じてひどい扱いを浮け続けていて、ハリボテの高慢さや傲岸不遜さ、優越感、自惚れこそをメチャクチャに叩き潰したくてこういう事をせざるを得なくなったのだろうか。他者への恐怖や孤独への不安には上手く折り合いをつけることができた様子ではある。
ラストの宇部市らしい付近の実写は『式日』の舞台っぽい建物の屋上(印象でしかなく間違っている可能性が高い)が一瞬映り、やっぱりカントクは実写がやりたかったんだなあと興奮した。総じて新劇は面白いは面白いが、エヴァという物語は旧劇でオちており、登場人物を何らかの動機で救済してやる必要が出てきたので新劇が作られ、物語は再び終わり、登場人物もこれで救われた、というように解釈した。


パリの戦闘にてガチョウ足行進で進軍してきた大量のエヴァンゲリオンしかり、Q から役目の増えた複座の搭乗を要求するエヴァンゲリオンなど、物語の中での戦闘が個人ではなく集団を要請するようになってきたのは注目に値するかもしれない。

読んだもの (2021-02)

クラッシュ (創元SF文庫)
自動車事故からよくもまあこんな緻密に言葉を練れるもんだ。『デス・プルーフ』みたいなやつかなと想像していたが、そいつの数十倍は気味が悪く粘着質で男根的だった。これを自伝の要素があると言えてしまうのはすごい。

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
労働というもんはみんなブルシットなもんなんだみたいな内容だと思っていたが違い、労働にはブルシットなものがある、というようなことから始まりブルシットな労働そして生活をしなくてはならぬ現代について考察を広げてゆく、といったような感じの内容だった。
注釈を全部すっ飛ばして読んでしまったことをひどく後悔している。

闇の自己啓発
何か結論を出す訳でもなく、合意に至るわけでもなく、題材になっている本から様々にあちらこちらに考察を広げてゆく。知識の散策をこのように自在にできたらとても楽しいだろうなと思った。生きることは苦痛だが、考えること、学ぶこと、知ることは楽しい。そんな一冊だった。

ヒトはなぜ自殺するのか
人間が自殺に至る思考のプロセスには典型的なものがあるということを知った。典型的なパターンを示すひとつの事例として挙げられている内容を読んでいるとどうも『二十歳の原点』とダブるようなものがあるように見え、あたりまえなのかもしれないが自死は別に必然ではないのだなと思った。

読んだり観たりしたもの (2021-01)

読んだもの

SS戦車隊〈下〉
戦争にも戦闘にも負けた軍隊の現場の風景。とにかく生き延びること。しかし作戦は発動されスチームローラーが猛威を振るう。
ここでも大日本絵画系の数々の書籍の元ネタがわかり有意義だった。というよりこの本自体宮崎駿の『ハンスの帰還』で引かれている戦車の上に乗っている人はあっというまにコロコロ死んでいってしまうという台詞が実際にはどういう文脈なのかを知りたくて読んでいたのだった。

パプリカ (新潮文庫)
後述するようにアニメ版を観たのでその流れで読んだ。
最後のほうのシッチャカメッチャカさでああこれはいつもやつだ先生流石です、となった。そこに差し掛かるまではなにか凄まじいものを物語に読まされている感だけがあった。物語に読まされているという感覚があったのは久し振りだ。

命売ります (ちくま文庫)
理想は執着を生む。かつては覚悟であったものが虚勢にかわり、虚勢の内容が内容なので誰にも助けを求められない。

妙な線路大研究 東京篇 (じっぴコンパクト新書)
読んで面白かった、と書けばそれまで。この本片手に実際に現場へ行ってみたほうがもっと楽しめそうだなと思った。

パンデミックvs.江戸幕府 (日経プレミアシリーズ)
「無敵の人」がいっぱいいる治世は大変そうだと思った。

秒速5センチメートル one more side
(早口でまくし立てているイメージで読んでください)
すべての小説は「血で書かれたもの」と「インクで書かれたもの」の二種類にわけられます、と小川哲は『伊藤計劃トリビュート2』で書いた。
書き手でもない単なる一読み手としてのわたしはこの分類の他に、すべての小説は「知恵を授けるもの」と「傷を授けるもの」の二種類があると思う。
この小説はわたしにとって「血で書かれたもの」であり、「傷を授けるもの」であった。
忘れること、諦めること、選択をすること、これらは悲しくも大人の力である。子供にはそれらはまだ備わっていない。どうしようもない力不足の中、子供達は生き抜くことを求められる。とてもつらいことだ。
その力不足のつらい世界を「大丈夫」の言葉で救い、支え合い、高め、純化し、理想化し、現実に抗う二人だけの世界を練り上げてゆく。しかしその世界はその極地でどうしようもなく強い体験に塗り潰され、力を失ってしまう。
二人は別れ、離れ、一方は力を育むという能力を得て生きることができ、もう一方はどこか欠けたまま、大人になっていった。
アニメ版で貴樹くんは最後に新しい道を選ぶことを選ぶのであれは良い終わり方なのだ、という解釈がある。そうなのだろうなと思う反面、どうにも腑に落ちない感覚がずっとあった。
この物語によってその感覚を拭い去ることができた。貴樹くんは明里さんに一度授けた「大丈夫」をあの桜吹雪の中で返してもらったのだ。彼もそこで大人となったのだ。それが良いことなのか、悪いことなのか、それが本当にわたしにはわからない。たぶん良いことなのだと思う。

今でもこの物語の事を考えると心臓に違和感がでてくる。これほどまでに読書でキツい思いをしたのは『ボトルネック』と『悲しみの歌』以来だ。

観たもの

パーフェクトブルー【通常版】 [Blu-ray]
鬱屈した現実を抱えているのに加えて変質的な虚構に迫られ牙をむかれるのは実に嫌だったろうな。虚実入り混じった情景と書けばそれまでだが、入り混じるどちらもが気色悪いものだったらどうすればよいのだろう。

パプリカ
パーフェクトブルー』もそうだし随分昔に観た『千年女優』もそうだが、この監督はずっと虚構と現実の関係をずっと考え続けていたのだろうな(とコメンタリーでも言ってた)。
夢が現実をブッ壊してゆくのはよくあるが現実のほうが夢をブッ壊してゆくみたいなのはないのかなと思ったが、なんだかこれは神経症的な実世界の出来事みたいであまり豊かな発想ではなさそう。

虐殺器官 [Blu-ray]
劇場版『虐殺器官』について - ``一意な文字列'' で書いたので省略。

菊次郎の夏 [Blu-ray]
かなり好き。怖い夢ばかりだったのに最後は楽しい夢を観れてよかったね。
「子供」に現実や社会は厳しく苦難に満ちている。しかしその厳しい苦難の世界であっても子供のような優しさ、楽しさは救いになる。悲しいかな、その優しく楽しい世界に留まっていることは出来ない。ふるさとにずっと居る訳にはいかないからだ。
周囲に対し傍若無人に振る舞う菊次郎が文学者志望の「優しいおじさん」にだけ一目置いた態度を取っていたことに感動してしまった。彼だけは大人でも子供でもない「お兄さん」だったのだろう。
観ているあいだずっと坂口安吾の『文学のふるさと』のことを思い浮かべていた。

劇場版『虐殺器官』について

先日、今更ながら劇場アニメ版の『虐殺器官』を観た。

同『ハーモニー』がとても悲しいことになっているという苦い記憶があり(そのあたりは
劇場版『ハーモニー』について - ``一意な文字列'' で書いた)、随分前に公開されたというニュースをみても観にゆく気にならず、今回もまた悲しいことになっているんだろうと憂鬱になり、悲しい目に遭ってやたらに酒を飲む破目になるんだったら観ないほうがいいやとずっと過ごしてきた。

しかしまあ観ないまま憂鬱でいるよりも観て憂鬱になったほうが健全かなと最近思うようになり、ちょうど観れる機会を得たので観てみることにした。
結果、予想通り憂鬱になり、冷凍庫でビン半分残して冷やしていたボンベイ・サファイアをストレートで一気に飲み上げ、見事に宿酔になってしまった。

ここで到来した宿酔はほぼ治りかけているが、どうしても憂鬱な気持が解消されてくれない。
なんとかしてこの落ち込み加減を文章の形で出しきり、憂鬱な気持にケリをつけたいがためこの文書を書いている。

以下、小説版および劇場アニメ版のネタバレが殆どの内容になります。


原作を基準にすると『虐殺器官』という物語は以下の2軸で展開されているように読める:

  • ラヴィス・シェパードという人物の罪の意識(ぼくを愛してくれていた母をぼくは殺してしまったのではないかという疑念)
  • ジョン・ポールおよび「虐殺の文法」の存在についての回答

前者の肉付けというか裏打ちのようなかたちでクラヴィスの部下であるアレックスの語る「地獄」も存在する。最初はエッセンスとしての存在程度ではあるが、アレックスの自殺とプラハでの逡巡を越えて「地獄」はクラヴィスの罪の意識の土壌のようになってゆく。
ラヴィスは母殺しという罪の意識を自分だけで抱えられるほどに強くはなく、それゆえ時折到来する「死者の国」で描かれる何もかもが死んだ穏やかな破滅の光景に安らぎを見出している。母からの呼び掛けに実家時代の安らぎも見出しているので母からの愛による安らぎもあるだろう。
その母を殺した罪をどうすればよいのか。ルツィア・シュクロウプ*1への告白とその反応で、ルツィアからの赦しのような感覚をクラヴィスは得る。自身の罪はルツィアによって赦された。しかしその赦しを施した存在は虐殺の文法の示唆と共に遠くへいってしまった。以後のシェパード大尉の戦闘は再びの赦しを追い求める追跡行となってゆく。
インドおよびヴィクトリア湖での戦闘を経、クラヴィスは自身の罪を赦してくれる唯一ともいえる存在であるルツィアを失う。赦しを求める気持ちはいつしか愛に変わり、クラヴィスは愛した者を失う喪失感に陥る。そして帰国し除隊した後のアメリカで、自身を愛してくれているはずだった母から実は愛されていなかった(と暗示される)ということを知る。
愛するものを失い、愛されていることも失なったのだ。クラヴィスは強くない。罪は赦されず、愛もない。そんな状態で地獄をひとりきりで直視し続けることなど、彼には耐えられなかったのだろう。アレックスのように地獄を正気でみつめる勇気がなかったのだ。
生き地獄、みんなで向かえば怖くない。クラヴィスは虐殺の文法を振り回し、ひとりきりで地獄をみつめるのではなく、生きる世界そのものを地獄にして逃げたのだ。

……というクラヴィスの一人称の物語という読み方をわたしはしている。
前述の2軸のうち、これはあきらかに前者に偏った読み方であることは否定しない。虐殺の文法は重要な要素であるとはいえ、物語を成立させる小道具のひとつとして読んでいる。

いっぽう劇場アニメ版はクラヴィスの母に関する描写がない。アレックスの語る「地獄」については要所要所で語られるものの、クラヴィスが「地獄」を自身に強く結びつけているような描写もない。そのうえアレックスの語る「地獄」は感情適応調整、PTSD、および虐殺の文法による効果によるもののような描写にも見えなくはない。
ルツィアの描写はどうだろう。アニメではジョン・ポール、少なくともルーシャス一味の仲間として描かれている。原作での赦しを与える存在からズレてしまった。クラヴィスチェコ語のレッスンにおける会話のみで*2ルツィアに惚れたかのような描かれ方をしている。
ルツィアは最終的に射殺され、原作通り退場する。母からの愛や母殺しへの罪の意識もなく、ルツィアからの赦しに呼応する彼女への愛もないクラヴィスは何をもって虐殺の文法を振り回すのだろうか? ルツィアを殺した世界への復讐に見えなくもない。

地獄を愛なくひとりでみつめることからの逃亡。惚れた女を殺した世界への復讐。クラヴィスの強くなさはここで小説版とアニメ版とで奇妙な一致をみた。
ここまで書いてクラヴィスという人物の捉え方の根底はどちらでもあまり変わらないのだという結論に至り、自分でも驚いている。

罪の意識、愛すること、愛されること、そのすべてが解決不能ないし消滅したことで虐殺の文法を振り回すこと。
愛する女性を死に追いやった世界に牙を剥くことで虐殺の文法を振り回すこと。
しかしながら前者を描き切り主人公を空虚な絶望で染め上げることに成功した小説版の展開に比べ、後者はとても簡潔でわかりやすい。わかりやすすぎる嫌いがあるように思う。
愛することに対してアニメ版のクラヴィスは純粋すぎ、なんだか表面がツルリと綺麗な感じだ。小説版のクラヴィスは顔をクシャクシャにしてベソをかいているような醜さがある。

世界を「地獄」に叩き込むなら綺麗な人間よりも醜い人間のほうがよい。そんな訳のわからないわたし自身の気持ち悪さが劇場アニメ版『虐殺器官』を観て憂鬱な気分にさせた理由なように思う。

*1:アニメ版で「シュクロウポヴァ」と女性形っぽくなっていたのはよかった

*2:作戦前にやったかもしれないプロファイルの読み込みなども描写外で効果あるのかもしれない。が、アニメ版でそういう描写ってあったかしら? 記憶がない