``一意な文字列''

雑多な事柄

彼の名は連休

 じゃあそろそろ帰り支度でもするかね。そう言って彼は洗濯してハンガーに吊るしたままだったシャツとデニムをとり、脱衣所に向かった。
あ、と少し間の抜けた声を出し、私は本棚の上の置き時計に目をやる。二十三時五十分を示していた。
うん、と私がこれまた間の抜けた返事をするのと同時に脱衣所の扉がバタンと音を立てて閉まった。もうそんな時間か。溜息をつきながらテーブルの上にある彼の使ったグラスに目をやる。

 彼はいつも私の元に突然やってくる。やあ、とインターホンを鳴らし、いやあ疲れたねと笑いながら、のしのし手ぶらで部屋に上がってくる。
たまにはなにか食べ物か飲み物を持ってきてくれてもいいんじゃない。わたしがそう言うと彼はインターホンの前に着いてから持ってくるの忘れたことに気付いちゃうんだよねとにこやかに言うのだった。気が利かないんだから、と私も溜息混りに笑う。

 結局、旅行とか遠出とかそういう普段の暮らしを忘れに出掛けるということを今回も彼とはしなかった。
私の部屋でぐうたらしたり、近所を散歩したり、部屋から少し離れた居酒屋にお酒を飲みに出掛けたり、普段でも出来るようなことを彼と一緒にしただけだった。
 どこか出掛けないのかいと彼は私に訊くのだが、どうも気乗りしないのだと私が答えると彼はうなずくだけだ。そうか、と一言、あとは訊きもしないし、勧めもしなかった。

 部屋でのぐうたらは文字通り。冷蔵庫にある食材で適当なごはんをこしらえたり、近所のスーパーで買ってきたお菓子をつまんだり、あまり行儀のよくない生活だ。
本を読んだりラジオを聴いたりテレビを観たりもした。サブスクリプション型の映像配信サービスで映画も観たりした。
映画といえば部屋の棚にあった『バリーリンドン』をなんとなく観て、これはこういうふうに観るもんではないなと彼と頷きあったりもした。

 私の部屋はおおきな川の近くにあるワンルームマンションで、部屋を出てすこし歩くと河川敷に出る。部屋でぐうたらするのに飽きると彼と連れ立って河川敷へ散歩に出ることもあった。
 私達と同じように男女で連れ立って散歩するカップル。ランニングウェアでジョギングする女性。練習帰りらしい少年野球の子供たち。川に釣竿を垂らして居眠りしているおじさん。
いろんな人がそれぞれの時間を過ごしていた。
 部屋でぐうたらしてるのも良いが外に出ると俺たちだけぐうたらしてる訳でもないって事がわかっていいな。彼はそう言ってひとりうなずく。
私達が特別ぐうたらしてるみたいな言い草ねと私が言うといや案外そうかもしれないと思ってたと彼は真顔で言った。

 彼も私もお酒はほどほどに嗜む。部屋でもお酒は飲んだけれども外にも飲みにいこうと彼は言い、私もそうねと部屋を出た。
向う先はマンションから十五分程歩いた所にあるかなりの歴史がある居酒屋だ。お品書きを見ずとも注文できるくらいにはそこでお酒を飲んでいる。
私も彼もよく飲んだ。酒飲みは酒飲みと連れ立つとますます酒を飲んでしまうそうだ。酒飲みとはいえない私達だが、この時ばかりは酒飲みになってしまっていたかもしれないなと今になると思う。
 私は酔った。彼も酔っていたと思う。どちらも顔に出ない質なので、どちらがどれくらい酔っているのかわからなかった。

 居酒屋からの帰り道。楽しかったね、部屋で飲むのとはまた違うねと私は言った。店だとまわりが変化するからいいな、部屋だといろいろこもるからなあと彼は答える。返答なのか独白なのかよくわからない事を返すのは素面でもよくあることだ。
楽しかったけどこの楽しさも終わるんだよね。ずっと楽しいままだったら良いのにな。私は独り言ちた。酔ったせいで照れ臭いことを言ったなと少し後悔した。
 そのとき連れ立って歩いていた彼が急に立ち止まった。手を繋いで歩いていたのでわたしはつんのめるような形で歩くのを止めさせられる格好になった。

 物事には終わりがあるくらいが丁度良いんだよ。終わりがなかったらそっちのほうが俺は悲しくなるな。
終わりがないと飽きるからな。終わるって解ってれば終わるまでを大切にする気になるだろ。
楽しいことも終わるし悲しいことも終わる。始まったら結局は終わりに進むしかないんだよな。

 言ってる事と顔とが見当ってないよ、と私は笑った。真面目だったのか酔っていたのか、彼はそのときも笑っていたのだった。
私達は再び歩き出した。繋いだ手を少し力を入れて握りしめた気がした。

 ごめん今回も部屋着よろしく。シャツとデニムとを身に纏い、この前やってきた時と同じ格好に戻った彼が居間に戻ってきた。
テーブルに置いてあった彼のグラスを手に取り、中身の烏龍茶を飲み干した。
今何時と彼は訊き、もうすぐ日付が変わるよと私は答える。じゃあそろそろ帰るわと彼はグラスをテーブルに置き、玄関に向かった。部屋着よろしくとは彼が私の部屋に居た間使っていた使い古しのパーカーとチノパンを洗濯しておいてくれ、という意味だ。わざわざ部屋着を携えて来るのが面倒なので置いておいてほしいと彼が言うのでそうしている。
 玄関に向かう彼に見送るよと私はソファから立ち上り、いいよと彼が言うのを無視して玄関まで一緒に向かった。

 ここでいい、と彼は靴を履きながら言う。私は頷き彼が靴を履き終えるのを待つ。
 じゃあおやすみと言う彼に私は訊いた。また会えるかな。
彼はきょとんとした顔になり、少ししていつもの笑みを浮べた。何を言うかと思えば。そんな言う程会ってない訳じゃないだろ。今生の別れみたいになってて怖いよ。
 そうなんだけどね。と私も笑う。今回はけっこう長く居てくれたじゃない。なんだか少し寂しくなっちゃった。
いつだって会えるしまた来るよ。また迷惑を掛けるね。彼はすこし済まなそうに言った。そんな事無いよ。待ってるね。私は笑みを浮べながら彼にしては珍しい言葉に返した。

 じゃ、行くわ。おやすみ。彼は言い、玄関のドアを開けた。
 うん、おやすみ。気をつけて。私は言い、彼の放した扉のノブを持つ。
 彼は玄関を出て数歩マンションの廊下を歩いたところで軽くこちらに手を降り、そのあとは来たときと同じようなテンポで階段を降りていった。夜の静けさの中に彼の靴音が響いていく。それもまた彼が帰ることでどんどん小さくなっていった。
マンションのエントランスの扉が開き、閉じる音がした。彼の靴音もまだしばらくは聞こえていたが、やがて聞こえなくなった。

 彼を迎える時、恥かしくて私は内緒にしているのだが少し扉を早めに開けている。
彼の足音が聞こえなくなり、私は静かに、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。
 居間に戻り、ふと本棚の上の置き時計を見やる。零時一分を示していた。