``一意な文字列''

雑多な事柄

泥酔

 ビールジョッキを持ち上げたら親指が落ちてしまい、あやうくビールジョッキも取り落としそうになった。落ちた親指を見れば土色だ。もうそんなに飲んだか。飲酒すると時間を忘れてしまう。

 週末の夜は大抵行き付けの飲み屋で酒を飲んで過している。俺は煙草を酒の肴にする性分なので、店の入口を抜けて左に折れると広がる喫煙席に向かう。それほど広くはない空間に大小のテーブル席が並んでいて、店員は酔客の注文を聞き取るのに忙しい。口も喉も崩れかけているのが酔客の常なので発音される内容も崩れており、何を言っているのかが不明瞭だ。店員も大変だ。
 入口右側の禁煙席も含め決して広いとは言えない飲み屋だが人の入りは激しい。しかし客が増えても店員は席を案内することはない。空いている席を客が見繕って勝手に陣取る形態なのだ。相席ともいう。今俺が座っている席も酔客がひしめき煙草の煙がモウモウとたちこめる喫煙席を眺めて見付けたものだ。
 相席なので隣に座る酔客は見ず知らずの他人であることが殆どで、俺の両隣は競馬新聞を抱えたジイサン、向いは包装されたカーネーションを撫でているバアサン、斜向いにはフロックコートにシルクハットを被り缶ピースをほじくっている伊達男までもがいる。少し離れたところからは英語でも中国語でもない言葉も聞こえる。観光客だろうか。

 親指がなくなってしまったのでビールジョッキを落とさないように口に近付け、ビールを飲む。支えが心許無くジョッキがぐらつく。口から溢れたビールが顎を伝いシャツの襟にたれてしまった。これはいかんとハンカチで襟を拭くべくズボンのポケットに手をつっこんだが、今度は指が数本手からちぎれてしまいポケットの中でドロドロになってしまった。こころなしか足も柔らかくなってきている気がする。どうも酔いが予想以上に回ってきてしまったらしい。かろうじて残った指でハンカチをつまんでポケットから引き抜き、まだ無事なほうの手に持かえて襟を拭いた。

 オニイサンずいぶん飲むじゃないの、とカーネーションのバアサンが声を掛けてくる。ええまあ、と適当に返事する。ワタシはここの近所にずっと住んでてね、最近家を改築したんだけどね、もう四十年くらい前から住んでたね、夫と住んでてね、そいつを立て替えて新築のね、ここから歩いて五分くらいのところの同じ丁番なんだけど毎朝散歩してここが開いたらそこから夜までずっと飲んでてね常連とはみんな友達でみんなの顔を知ってるの一見さんとも仲良しでこの前はもう死ぬんだって言って泣いてたオノボリサンがいたから何が死ぬだバカヤロウって説教してやってね、オニイサン飲むじゃないの気をつけなよ。バアサンも酔っているようで下顎が崩れかけている。そうですか、すごいなあ、大変だなあ。相槌をうちながら俺も自分の顎を触っていると指が顎にめりこんだ。これは酔ってきたな。ふたたびビールを飲む。今回は零さずに飲めた。ここの酒はみんな強くてね油断するとすぐみんな潰れちまうんだ、ビールなんかじゃなくてここのナントカっていうブランデーをバカみたいに飲みまくってたやつが席でブッ倒れて救急車呼ばれたの見た事あるよ、とうとうバアサンの下顎がドロリと崩れた。

 向いのバアサンも両隣のジイサンもみんな愉快そうに声を張りあげては与太話をしている。酔った末の会話なぞ大抵は意味を無さないのだから与太話を楽しく繰り広げるのは全く正解だと思う。向いのバアサンは顎がなくなってもなんとか喋り続けようとし、俺の右隣にいた夫らしいジイサンがもうやめとけという手振りをし、そのまま流れるようにブランデーの入ったグラスを掴み、指がグラスにくっついたまま掌だけ離れてしまった。あらら、とグラスを見やる俺の視線に気付いたようすで恥かしそうな表情をする。ニッコリ笑って俺も指の欠けた手でジョッキを持ち上げ、中身を空にした。酔っているがまだ飲める。フロアを回る店員を呼び止めようとして腕を上げたら手が飛んでいってしまった。飛んでいった手を目で追っていたジイサンと目が合い、お互いに苦笑いし、グラスとジョッキで乾杯した。ジイサンの顔色は土色だった。俺の顔も土色だったろう。

 飲み屋の床は泥まみれだ。乾燥している箇所もあればまだ水気の多い場所もある。単に泥を床に撒いた訳ではない事は腕の形が残った土塊が落ちていたり靴や腕時計やネックレスが泥のいたるところに散乱していることからわかる。ここの店員は黒のスラックスに同じ色の革靴を履き、白いシャツでネクタイを締め灰色のベストを着るというのが制服のようだが、酔客の泥に満ちた店内をそんな上品な格好で歩くことは憚られると見え、制服の上からゴム引きの膝丈エプロンをつけゴム長靴を履いた格好で店内を歩いている。乾燥した泥がエプロンと長靴にこびりつき、パリパリになっている。

 泥酔とは泥のように酔うということではなく、酔って泥のようになることだ。

 ビールとブランデーのおかわりを注文し終え、煙草を吸おうとシャツの胸ポケットに手を伸ばしたときには無事と思っていたもう片方の手からも小指と薬指が泥になって消えていた。なんとか他の指を落とさないように煙草を抜き出し、ライターのやすりを擦ろうと親指に力を掛けたところでヤスリが親指を貫通した。タバコを吸えなくなってしまい哀しくなったがフロックコートの伊達男がマッチを擦ってくれた。伊達男はどこも土色になっていない。泥の中からみるマトモな人間は美しく、またどこか哀し気に見えた。

 酔いが回っても酒を飲みつづけることで泥酔の域に到達したとき、そこにあるのはよくわからない。
恍惚でもないし高揚でもない。ただ目の前がギラギラし、賑やかな周囲の音が意味を為さなくなる。ビールジョッキを持てなくなり、水の入ったコップも持てなくなり、自分がなんなのかもわからなくなる。

 なぜか。泥になるからだ。泥酔とは泥になることだ。

 と、喫煙席の入口に見知った顔が見えた。そういえば今日は待合せをしていたのだった。向こうもこちらに気付いたようだ。全身土色の俺に気付いた相手が顔色を変えるのと同時に泥の俺は形が崩れ、潰れた。喫いかけの泥まみれの煙草からはまだ煙が立ち上っており、煙の色も泥のような色をしていた。