読んだもの

子供の正直な世界が地獄を内包するのと同様に大人も地獄をみている。しかし大人を大人としてカリカチュアに描きすぎているのではと思わなくもない。子供のころにこういった物語を読んでも特に何も思わなかったのではないかと感じ、そういう意味では今この時分に読めてよかった。

面白かった。モノの世界を隔てていたコストがハコを主体としたシステムで圧縮され、この圧縮度合いにはスケールメリットがあるので巨大資本がだいたいシステムを握っちゃった。いっぽうでモノの世界が縮んだことで「グローバル」な物流や商流も形跡できた。効率化の影には「仕事」の労働化ひいては最適化が進む側面もあるわけで、システムというのは最大多数の最大幸福というところに落ち着くのかもしれない。
ところでモノのロジスティクスとしてのコンテナというやつのイノベーションの流れ(規格化、スケールメリットの拡大、巨大資本による掌握と効率化)というのはコンピュータ業界の OCI コンテナも同じように韻を踏んでいるようでそういった意味での面白さもあった。

『水曜日は働かない』由来。これも中々面白かった。しかし雇用の流動性の低い環境は居たくないなとは思ってしまった。「共同幻想」の強い環境には居たくない、とも言えるか。最後の章で主人公の名を借りたと思しき著者の総括をせんが為の物語的な積み上げなのだったのではなかろうか。曰く、闘争を続ける中でも時代は移り文化も進みテクノロジーも変わる。労働に闘争が有り得た(と書くのが間違いならば手段として有効だったと言ってもよい)時代の鎮魂の物語だと思った。『安田講堂1968-1969』と同じような読後感だった。

パシリについての理論化と役割の分析を試みた大変有意義な一冊。という一文では無味乾燥なのだが。読んでていろいろと苦痛ではあった。身につまされる視点やらがあった為だ。

読んだなあ、という感想しかない。現実の模倣(シミュラークル)と演習(シミュレーション)が現実を超越(ハイパーリアル)した空間情報量をもつようになり、現実は意味を情報量の尺度として備えていたがハイパーリアルは意味を吹き飛ばしてエントロピー的な効能だけの情報量になっちゃった、とかそんな感じか? ホントに?

もうクリスタルとか言ってられない状況になってしまったね。
もとクリは註が本文の対訳のような効果を果たしていたように思うのだが(見開きもそういう意図だと思っていたが利便性の意味合いしかなった様子)、いまクリでは註は註以上の役目を果たせなかったようで。註というよりは筆者のポートフォリオのようになっていたように思う。
閉塞感の中を絶望せずにやるべきことをやっていきましょうよ、こういった態度は好きだ。態度自体は好きだが、実際にそれを要求されてしまうと私は駄目だ。

最高。半年位積んでいたのだが、もっと早く読んでおくべきだった。終始笑いながら読んでいた。ほとんどデカダンとニヒリズムな調子なのに神秘的だったり破壊的だったりな内容を行ったり来たり。扱う範囲も縦横無尽。「博物学」の名前に負けていない。

読んでて落ち込んできた。ムチャクチャだ。かつての 2ch も実際はこういった感じだったんだろうか。時代がそうさせたのか?
2025-02-04 追記
読んでいたときの覚え書きが別途あった。すこしいじって加筆:
尖ったもの勝ちみたいな世界観がインターネットに留まらずリアルにも及んでいて、まあインターネットはリアルだもんな、もはや。言動と行動とがフィードバックループを成してどんどん先鋭化してゆくのは政争の歴史の韻を踏んでいるようにも思う。本文中にもあったが、先鋭化してゆく中で理論の構築がなされず先鋭化の過程でポンポン出てきた象徴が先鋭化を更にもたらすといった構図で、醜さのようなものの要因がここにもあると思う。2ch でもそうだったのだろうかと思ったがよく考えると旧き 2ch の文化でも実力行使(= 今の文脈でいう先鋭化)の側面もあればクソスレの塊みたいな文化もあり、chan 文化や Tumblr も色々な側面があるようには思う。それら全体を文化史的に扱ったり、ましてやそれら全体をひっくるめて何らかの結論を出したりするのが本書の主題ではないのはその通りで、先鋭化し醜く残酷になりリアルになってゆく当該文化の側面を活写したのが本書ということになるだろう。
観たやつ

淋しさは力を産むこともあり、力を実現する為に採った手段は嘘だった。嘘により作られた世界は嘘を維持しないと崩壊してしまう。嘘を維持するために身に付けた本物の技術が現実を豊かにしてくれてよかったね。
2025-02-04 追記
Vol.1 まで観たときの覚え書きが別にあった。すこしいじって加筆:
中々面白かった。註釈を加えてくる老人が良い角度からの差し込みをしてくる。笑ってしまう。バッハとポリフォニーとフィボナッチ数でオタク語りをしてくるので毎度そこで笑ってしまう。説明的な場面の描写にもキレの良さを感じた。しかし長い、これだけは苦痛だった。

ラスト5分まではかなり良くて、ラスト5分くらいでドン底に叩き落とされた、最悪の鑑賞体験だった。註釈を加えてくる老人の視点が良い角度からの差し込みしかなく大体の話題をバッハとポリフォニーとフィボナッチ数でかっさらってゆくのには笑ってしまった。バッハとポリフォニーとフィボナッチ数で取り扱えない話題には狼狽し言葉を探し時には逃げたりションボリし、ひとまずは出来る範囲で向き合おうという態度で臨んでいたんだなあ、と思えていたのはラスト5分までで、そこからはもう、ドンデン返し、いたたまれない、結局それかよ、という感じ。
2025-02-04 追記
上記は Vol.1 と Vol.2 を通して観ての感想。そうした際の覚え書きが別にあったのだが、上記文章を書いている間は心象の問題でそれをそのまま転載できなかった。
別にそっちを使ってもよいかと思うようになってきたので、そうする:
Vol.2 ド頭でアンタ何も聞いてないでしょと主人公から話相手の老人がツッコまれる展開で笑ってしまった。そして Vol.2 に進むにつれて物語はどんどん深刻になり、老人の差し込みも効力を失ってゆく。なんだかんだで物語としては清算が済み悲劇としての幕が下りたというところで老人が主人公を犯そうとしやがり、悲劇が一気に喜劇(笑劇という意味ではない。『人間失格』がラストの京橋のマダムの独白で悲劇から喜劇になってしまったのと同じ意味合い)と化してしまい、このラストのせいで最悪な映画という心象をもった。
何故最悪かというに、老人の主人公への差し込みはコミュニケーション不全な状況下で主人公を口説こうとしたものでしかなくなっちゃった為だ。老人自体たぶん Vol.1 の時点では手応えのようなものを当人感じていらっしゃったのではないかと思う。主人公が語った内容に差し込みが出来ていたという意味においてのみの手応えだ。Vol.2 になってから主人公の語りに老人は追い付けなくなり、差し込めなくもなり、口説くのに失敗した。口説けなかったので、俺もお前を散々抱いてきた男のひとりになってやると無茶をやり、射殺される。ラストで明らかになったのは童貞老人が道端でボロボロの女を拾ったのであわよくば一発ヤリてえと思いつつ介抱し口説く(といいつつ女の凄絶な話に註釈以上の内容が無い反応をするだけ。そう、話を聞くだけなのだ)様を合計5時間程観ていたことがわかるというものだ。
観たあとドン底まで落ち込んだ。主人公の語る内容がこの映画を良作としている。結果としては面白い映画なのだが、ひどく打ちのめされる映画でもあった。

やっぱりフォン・ノイマンが出ていてほしかった。
