もう10月になっちゃったけれども。
読んだもの (2018-08)
伊藤計劃とか神林長平とかを読み返してばかりいたせいで新しい本を買っていないように思っていたためここに新しい記事を加える気にもならなかったのだが本を買った履歴を読み直していたら新しい本を買っていたようなので記憶を掘り起して書く。
といっても2冊だが。
「特攻隊に捧ぐ」が紙媒体で欲しかったので買った。「もう軍備はいらない」もほしかったがこの本のターゲットとしていた時期からはズレるのでしょうがない。
とりあえず岩波文庫のやつを2冊ひっぱりだしてこなくてもこの本が手元にあれば安吾センセイの文書でだいたい読みたくなるやつが賄えるようになったのでよかった。
ハックは生き方でエンジニアリングは職業という学びがあった。
エンジニアリングは目的ではなく手段に近い。エンジニアリングが目的になると哀しい。
コンピュータそのものを扱う技術の世界で食べるのであればエンジニアになればよいのだがコンピュータの世界で生きるのならハッカーになるべきなんだろうなと思った。
(2018-09-08 追記:コンピュータに関連する技術を「技術」という言葉にひっくるめていて不快だったので直した。こういう独善的な世界観は良くない)
プロジェクタとスクリーン買った
機械を買ったとかであれば https://nosada.hatenablog.com に書くのだが、なんというか今回買ったものはパソコンとか携帯電話とかそういう機械ではなく、どちらかというと雑文として扱うべきかなと思ったのでこちらに書く。
http://amzn.asia/b8j1M8p と http://amzn.asia/0UpqdPt を買った(うまくはてなから Amazon へリンクを張れずこんなんなっちゃった)。
用途はでかい画面で映画をみたかったというもの。
以下買ってみての感想。
よかった
- でかい画面で映画をみるとたのしい
- いつも小さなモニタでみてる映画が画面でかくなるだけで雰囲気がかわった
- プロジェクタ内蔵のスピーカがそれなりに質がよくてスピーカを買わずともよくなった
- ホワイトノイズをあまり気にしない程度の耳なので商品の参考にはなりません
- 説明書よまなくても雰囲気でつかえる
- 100インチもあるスクリーンだと広げるだけで圧巻
- プロジェクタがそれなりに小さいので場所をとらない
- X201s よりはちいさい
わるかった
- プロジェクタのインターフェースの配置が微妙
- 左右と背面に分散されててちょっと使いづらい
- 100インチスクリーンのとりまわしがつらい
- サイズ的にしょうがない
- 使うたびに収納から出して終わったらまた仕舞うということをしてるので運用のせいな気がする
- X201s のウルトラベースから DisplayPort -> HDMI だとうつらず GPD Pocket の micro HDMI -> HDMI しかうけつけなかった
- 明るい部屋だと見辛いので部屋を暗くする必要がある
わるかった点のほうが多くなってしまい書いてる本人も辟易しているが、買って本当によかったと思う。 プロジェクタとスクリーンはずっと欲しかったものだが、こんなに手頃に手にはいって満足できるのであれば早く買っておくのだった。
読んだもの (2018-06)
先月は蔵書(なんていうほど大したものでもないが)の整理みたいなことをしていた影響で未読の本を購入するということはなく、既に持っている中から読むということを繰り返していた。
本棚のスペースがなくなってきたので単行本版から文庫版に書い替えるという意味では新しい本を買ったりはした。
そういうわけで下記は書い替えた本です。
物語の本質ではないが廃墟となった東京(市街地)というイメージはどうしてこう安らぐのだろう。
サラサラ、ドロリ。
余談だが単行本を文庫に書い替えたつもりが既に文庫版のものを持っていたことに買ってから気がつき、文庫版がダブってしまうということをやってしまった。
ヨヴァノヴィッチ氏が登場する短編が好き。何度読んでもよい。
ところで文章を書いているうちに新しく買ったものがあることを思い出したので書きます。
いつか手元に置きたいと思いつつずっと先延ばしにしていたものを買った。
著者は現代という時代や現代に生きる人間を憎み絶望しているのだと思う。絶望から生まれる物語は鈍い光を放って輝く。
読んだり観たりしたもの (2018-05)
読んだもの
東独のくすんだ灰色という心象と鮮やかな音楽とが混ざりあって独特の色合いになっている。
これに影響されてバッハのパルティータ(マタイ受難曲がよかったのだが買えなかったの)と平均律クラヴィーアの CD を買った。ミーハーだ。
読み終えてからどうも定期士官に同情を禁じ得ず切なくなってしてしまった。自らの覚悟を職務に乗せて全うしようとする彼の姿が痛々しい。
映画の方をふたたび観てそういえば原作読んでなかったなと思いなおして。とりあえず外でごはんを食べたくはなくなる。
『慈しみの女神たち』とずっと比較しながら読んでた。けどそれはナンセンスかなと思う。
神を愛することを選んだ人間と神を棄てることを選んだ人間が最後に同じ信仰(ディテールは異なる)に辿りつくというのは面白い。ただし神を愛することを選んだひとのほうが恵まれている感があり、後者のひとと同じくどうしてお前だけと言いたくはなる。
『慈しみの女神たち』は生活と思索の方面から描いたがこちらは信仰の方面から攻めたのかしらん。
物語の詳細を解説してもらうよりファンファーレを高らかに鳴らされてなんもわからん状態にされたほうがよかったのかもしれない。少なくともわたしはそういうほうがよいと感じることがわかった。
観たやつ
生きるの諦めてしまったヤクザはみんな『ソナチネ』っぽくなってしまう。
読んだもの (2018-04)
やがて来る混乱のための予習。
当然だが空から爆弾や砲弾が降ってきても生きているなら飯を食って排泄しないといけない。
労働者は出勤して労働し、公務員は出動してナチス社会に尽す。たまにクーデターもする。それが日常だから。
処刑されたり射殺されたり餓死したり爆死したりしてもそれが日常になる。
日常とは柔軟なものだ。
文庫版がやっと出てくれたのを知ったので。和歌の語彙についての頻度分析が面白かった。
あとはよくある煙に巻かれるやつ。
解説も作品の世界観を流用して独特の雰囲気を出していて愉快だったが、解説なのかと言われると微妙な感がある。
煙に巻かれるとかそういうの以前の問題で、おはなしがよくわからなかった……。
物語が人間から独立してしまったので、人間(すくなくともわたし)からの理解を飛び越えたところにいってしまったのだろうか。
死そのものを丁寧に(綺麗に、ではない)、説明的に描こうとした結果。『死して咲く花、実のある夢』の発展版だと思う。