``一意な文字列''

雑多な事柄

読んだり観たりしたやつ (2024-04)

あんまり本を読めていない自覚がある。本を読めていない時期は目に見えて不調になる。本が読めないから不調なのか不調なので本が読めないのか、どちらかなのは判らん。

読んだやつ

細雪 (中公文庫 た 30-13)
大阪言葉というものを知りたくて読んだのだが、どうも当初の目的を果たせのかどうか。
まだ家格というものがあった時代に没落した旧家が「商品」を捌けず、そのいっぽうで庶民に至ることも出来ず、どんどん身を持ち崩してゆく、そんな感じの物語かと最初思っていて、20% くらいはこの解釈で合っていそうな感じはした。けれども家格の中にはきちんと「人格」を供えた者共が居り、者共が互いの利益に沿うようなだめてすかしてやりあいをしつつ、それらの合間に京阪神の美しい景観が流れてゆく、京阪神に比べて横浜以東はなんだが陰惨でホコリっぽい土壌だというのが繰り返される、そんな感じだった。
いちばん面白く感じたのは阪神大水害のシーンだったのでわたしは平家物語を読んでいたころからあまり感性が変わっていない。

モモ (岩波少年文庫)
読書遍歴がおおむね飲酒と共にはじまっていて、これまで児童文学のようなものを読んだことがなかった。それってどうなんだろうと思い読むことにした。
読んでて乾いた笑いが出ることが多々あった。清潔で効率的で功利的な世界には秩序のほうが余裕よりも重要視され、自由に遊んだり自由にボンヤリすることもやりづらくなる。出来ないわけではないのがまた小賢しい。
別にこの本は残酷な文学(村上龍ウエルベックあたりを念頭に置いて書いているがもっとマトモな形容があるとは思う。うまいやつが浮かばなかった)ではないので幻想的な手法でもって「現代社会」は救われるのだが、我々はモモの居ない世界に居て、どうすればよいのだろうか、そういった方面にはこの物語は何も意見を提出しない。わずかであっても我々自身がモモになるしかないのだろう。世界の捉え方の一助を示すというのが児童文学のもつ役割のひとつなのかしらん、と思った。
残酷な物語はいっぽうで世界を解釈し、何も助けない。何も助けないことが救いになることもある。わたしは少なくとも救われたと感じた。なのでわたしは飲酒と共に本を読みはじめたんだと思う(と言いつつウエルベックと出会ったのはつい最近なんだけどな)。

観たやつ

絶対に好きになるか極端に嫌いになるかのどちらかだろうなと思っていて怖くて観れてなかった。勇気を出して観に行ったら前者に転べたのでよかった。
変わらない日常に見えても色々なものが変わりゆくのが日常というもので、その中の些細な出来事に喜びや充足感を見出すという風景を淡々と描くという感じか。『ヨコハマ買い出し紀行』的な物語だと思った。