まだ12月終わってないけどもうこれ以上増えないので。
生存と生活に追われてなにも摂取できなかった。
読んだやつ
『ドグラ・マグラ』っぽいなあと思ったがオチが作中で明示されてるだけでとくに共通点はなかった。
不条理でも諦観でも絶望でもなくてこれはなんというのだろう。悟りのようだがそこまで高尚なものでもないような気がする。
まだ12月終わってないけどもうこれ以上増えないので。
生存と生活に追われてなにも摂取できなかった。
『ドグラ・マグラ』っぽいなあと思ったがオチが作中で明示されてるだけでとくに共通点はなかった。
不条理でも諦観でも絶望でもなくてこれはなんというのだろう。悟りのようだがそこまで高尚なものでもないような気がする。
まだ11月終わってないけどこれ以上増えないので。
いっかい読んだだけではよくわからない。読んでるときはわかった気になったけどよくある幻想だ。
面白かった。文化の側面からオンラインでのコミュニケーションを評価していく本。
恥ずかしながらパソコン通信時代のネットワークの在り方をこの本を読むことで初めて知った。
これもよかった。インターネット文化の批評。評価から受容、受容から浸透、浸透から変容へ。
ちなみにわたしはどちらかというとインターネットを現実と対になる空間と思いたがるタチなので、インターネットは単なるコミュニケーションの道具であり現実とウェブとは区別されないという立場をみるとさみしい気持ちになる。
これも白状すると読んでるときはわかった気になるが読み終えるとよくわからんとなる本で、一回読んだだけではなんもいえない。
アレントの著述の感想ではまったくないのだが終わりのほうに引用されている詞がよかった:
この世に生まれないことが
すべてにましてよいことだ、
生まれてきたからには次善のことは
生まれたもとのところにすみやかに戻ることだ
(ハンナ・アレント著、清水速雄訳『革命について』第十四刷中443頁より)
毎日寝る前に B5 版のルーズリーフに3~4行くらいで日記を書くというのを習慣にしていたのだけど、ここ1ヶ月くらいその習慣をやめてしまっている。毎日机には向かっているものの、ルーズリーフを取り出す気力もペンを握る気力もいまはないためだ。キーボードを叩くくらいの気力はあるので(もっともそれも徐々に失われつつある。タッチパネルを撫でることしかできなくなってきた)、「書く」のではなく「叩く」のであればなにか書けるかもしれないとおもい、書いてみることにする。
日記を書かなくなったのは単純で、日記に書くようなことがないためだ。きょうの晩飯の内容も思い出せない人間が1日を振り返ることは困難である。日記に書くようなことがないと言うよりは、日記に書くようなことがあったかどうかを思い出せないというのが正しいかもしれない。印象深いことも楽しいこともつらいことも悲しいこともみんな忘れていってしまう。忘れないために日記を書くのだという向きには、まず日記に落とし込むまでに記憶を吹き飛ばさないようにする必要があり、それが達成できないので日記を書けんのだと反論できる。ちかごろは本当に10分くらい前に考えていたことも思い出せなくなっている。画面越しに日々を過ごしているみたいで、生活に実感がぜんぜんない。
ただ、日記を書くまでは忘れていたことでも、いざ日記を書くためにペンを握ってルーズリーフを取り出せば思い出すこともある。実際日記を書いていたころはそういうこともあった。日常生活の全てやあるいは過去に考えていたことを常にすぐに取り出せるようにするのはどだい無理な話で、普段は全部忘れて必要なときに思い出すというほうが疲れない。忘れまいと憶え続けることは大変な苦労と苦痛をともなう。日記を書けない理由に書くことを思い出せないことを挙げるのは多分間違いではないが正解でもなくて、日記を書く気力がないというのが正しいのだろう。ペンを持つ気力もルーズリーフを広げる気力もないと冒頭に書いたが、そもそも日記を書こうという気持ちがなくなってしまっているのだとおもう。
日記を書かなくなったが過去の日記を読み返すことはある。大抵はしょうもないことが書かれているのだが、たまに面白いことが書かれていたりしてよくこんなこと思いついたなと過去の自分に感心することもある。日記を書けていた頃はそういえば未来の自分を楽しませるために日記を書いていたというフシがあったような気がする。そういう意味ではいまは未来の自分を楽しませる気持ちがなくなっているのだろうか。
日記を書きたくないというわけではない。できることなら書きたい。何をするにも体力が必要で、いきるためにも体力は必要である。日記をかく体力が、いまはなくなってしまった。
坂口安吾の『余はベンメイす』『不良少年とキリスト』『戯作者文学論』や太宰治の『親友交歓』『津軽』、あるいは最近読んだ中島らも『今夜、すべてのバーで』や吾妻ひでお『アル中病棟』といった、飲酒者ないしはアル中を描いた物語は大体おもしろい。
酒飲みの端くれとして、シラフや泥酔酩酊した人々にこうしたおもしろさを提供できるようになりたいな、と頭の隅っこで日々考えている。
せっかくなのでその修行の一環として、量と時間とに関連付けて飲酒し続けるとどうなるかを書いてみようと思う。
ビール中ジョッキは500mL、大ジョッキは1Lくらいのイメージです。
いわゆる普通の状態。無気力。なにも面白いことはない。ぼんやりしていると時間が過ぎていく。しんどい。
ちょっと飲んだ状態。シラフのときよりアタマがはっきりする。気持ちが高揚し、考え方が前向きになる。複数人で飲酒している場合、相手の話がきちんと聴こえ、理解ができる。パソコンがまだ使える。
けっこう飲んだ状態。気持ちが高揚しすぎ、全てが楽しくなってくる。世界の全てを許せるようになってきて、憎しみの感情が失われる。自分ではまともなことを喋っているように考えているが、実際は内容が少しづつ破綻していく。まだパソコンがつかえるが、ミスタイプが増える。
しゃべるのが億劫になり、沈黙する。目がすわる。見ているのだが、何も観えなくなる。話しかけると喋るが、喋っている内容が自分でもよくわからなくなってくる。スマートフォンはまだここでもギリギリ使える。
わけがわからなくなる。この辺りから記憶がなくなる。気がつくと布団の中にいたりする。書いた覚えのない言葉がインターネット上に転がっていたりする。歩くと千鳥足になり、傘を持っていると捧げ銃などする。スマートフォンを手に持っているといつのまにか消失していたりする。正気を装って文庫本を開いてみるとこれもやはりいつのまにか消失している。この辺りからフツカヨイ(後述)がおまけとしてついてくる。
なにもわからなくなる。記憶も飛ぶ。なにも聞こえなくなるし、何も見えなくなる。なにも考えられなくなる。一種の恍惚。
ヨッパライ(上記ヨイI〜ドウニデモナレを総称してこうよぶ)からシラフに戻る過程の中でよくみられる状態。現世の悪魔。シラフのときよりメランコリックになり、シラフのときより無気力になる。もう酒なんざ飲まねえという気分になるが、酒を飲まないという決断はそう簡単にできるものではないのである。
この記事はヨッパライ状態にあるときに書かれたメモを元に、シラフの状態で書いたものである。メモ書きは紙にペンで書かれたものであり、大変な悪筆と誤字にまみれている。これを付記としてこの記事に添えて終わりにしようとおもう。
OSC 2017 Tokyo/Fall へ行った。どうも一年ぶりの OSC らしい。
今回もセミナなどへはゆかず、ブースをウロウロするにとどめた。
今回初めて懇親会にも参加したが、激安価格で大量に飲酒できてとてもよかった。コスパが大変良い懇親会だった。
こういうイベントはブースやセミナももちろんよいのだが、やっぱり懇親会がいちばん面白い。
ひとは懇親しているときが面白い。酔っ払っているとなお面白い。