``一意な文字列''

雑多な事柄

日記を書く体力

毎日寝る前に B5 版のルーズリーフに3~4行くらいで日記を書くというのを習慣にしていたのだけど、ここ1ヶ月くらいその習慣をやめてしまっている。毎日机には向かっているものの、ルーズリーフを取り出す気力もペンを握る気力もいまはないためだ。キーボードを叩くくらいの気力はあるので(もっともそれも徐々に失われつつある。タッチパネルを撫でることしかできなくなってきた)、「書く」のではなく「叩く」のであればなにか書けるかもしれないとおもい、書いてみることにする。
日記を書かなくなったのは単純で、日記に書くようなことがないためだ。きょうの晩飯の内容も思い出せない人間が1日を振り返ることは困難である。日記に書くようなことがないと言うよりは、日記に書くようなことがあったかどうかを思い出せないというのが正しいかもしれない。印象深いことも楽しいこともつらいことも悲しいこともみんな忘れていってしまう。忘れないために日記を書くのだという向きには、まず日記に落とし込むまでに記憶を吹き飛ばさないようにする必要があり、それが達成できないので日記を書けんのだと反論できる。ちかごろは本当に10分くらい前に考えていたことも思い出せなくなっている。画面越しに日々を過ごしているみたいで、生活に実感がぜんぜんない。
ただ、日記を書くまでは忘れていたことでも、いざ日記を書くためにペンを握ってルーズリーフを取り出せば思い出すこともある。実際日記を書いていたころはそういうこともあった。日常生活の全てやあるいは過去に考えていたことを常にすぐに取り出せるようにするのはどだい無理な話で、普段は全部忘れて必要なときに思い出すというほうが疲れない。忘れまいと憶え続けることは大変な苦労と苦痛をともなう。日記を書けない理由に書くことを思い出せないことを挙げるのは多分間違いではないが正解でもなくて、日記を書く気力がないというのが正しいのだろう。ペンを持つ気力もルーズリーフを広げる気力もないと冒頭に書いたが、そもそも日記を書こうという気持ちがなくなってしまっているのだとおもう。
日記を書かなくなったが過去の日記を読み返すことはある。大抵はしょうもないことが書かれているのだが、たまに面白いことが書かれていたりしてよくこんなこと思いついたなと過去の自分に感心することもある。日記を書けていた頃はそういえば未来の自分を楽しませるために日記を書いていたというフシがあったような気がする。そういう意味ではいまは未来の自分を楽しませる気持ちがなくなっているのだろうか。
日記を書きたくないというわけではない。できることなら書きたい。何をするにも体力が必要で、いきるためにも体力は必要である。日記をかく体力が、いまはなくなってしまった。