``一意な文字列''

雑多な事柄

素面

謝辞:この文章を書くにあたり、題材、機会、および酒席を提供してくださった、友人 O 氏と T 氏へ感謝します。



 都市が火に包まれた時、人々は水辺に集う。随分前に教えてもらった葡萄牙ポルトガル里斯本リスボンとやらで起きた大地震のときもそうだったらしいし、火事と喧嘩はなんとやらという江戸でも火の手にまかれた人々は大川に集うと聞く。火事だったか花火だったか、祭りだったか、何が原因だったかは忘れたが、人々が密集しすぎて落ちた橋も大川にはあるとのことで、いつかはその橋を自分の目で見てみたいものだ。
 そんなことを思いながら、俺は火に巻かれた挙句の果て、避難してきた人々でひしめき合う鴨川の河原、五条大橋のたもとで、橋を支える頑丈そうな梁に背を任せ、逃げてくるドサクサ紛れにくすねてきた酒を飲んでいた。徳利へ有り物で栓をしたせいで逃げてくる途中にかなりの量がこぼれてしまい、着物に酒が染み付いている。こうなることはわかっていたから、徳利にして五本、無理矢理懐へ詰めて抱えるように走ってきたので、こぼれてもなお充分に残っている。酒臭いのだろう、至近にいる親爺がたまらないという表情で睨んでくるが、気にしない。徳利に口をつけ、酒を直接飲み下している。

 火の手は一昼夜を経て徐々に落ち付きつつあった。河原の周辺は元々火の手が廻っていなかったこともあり、身軽で野次馬な連中は続々と河原から市街へ戻ってゆくようだ。それでも京の街を御所から下って嘗めていった火はまだ市街のあちこちで勢いを維持しており、ここ河原に至っても焦げ臭く、空は煙で霞んでいる。俺が見た火は二条の河原から出たものであったが、逃げてきた誰かが捨てていったであろう瓦版には下立売まで燃えたとあり、どうも別の箇所からの火元もあるようだ。
 京はずいぶん前からきな臭い場所であった。今は止んでいるが、火が京を嘗め廻し始める日、あの臓腑を揺する砲の音。どおん、どおんという地響きの音。人間の叫び声とも合わさり、異様な響きをもたらしていたものだ。あの砲声の下、絶叫のたもとには明倫館の同窓の連中も居ただろう。大川にかかる橋が群集の密集で落ちたことがあるのだと言っていた辰次郎もその中にいた。

 辰次郎は剣術も槍術もからきし駄目で、およそ体術にあたるものにはまるで才覚のない奴だった。稽古がある度になんとか逃げようと方策を練り、無理矢理引っ張り出されては相手に叩きのめされるという有様であった。文弱で結構、俺にはアタマという武器がある、奴はそう繰り返し、臆病者、屁垂れの名をほしいままにしていた。しかし学問と砲術については他の門下生に比肩し得る者がなく、第二の吉田寅次郎と評されるほどに頭の切れる奴でもであった。戯れに辰次郎に碁や将棋、歌留多を幾度となく挑んだ事数知れず、全敗であった。学問も体術も平々凡々であり、家柄が多少良いだけの冴えない俺ではあったが、辰次郎とは何故か馬が合い、郷里くにではよくつるんだものであった。もっとも酒の飲めぬ辰次郎を無理矢理酒屋へ連れ出し、框で泥酔する俺の介抱をさせるといった事が多かったようには思うが。

 才覚を見込んだ御上の采配で辰次郎は江戸へ派遣されることになった。江戸の屋敷から戻って以来、辰次郎は周囲との軋轢が増えていった。夷を払うでも皇を尊ぶでも、それだけでは駄目だ、むしろ今はそんなことをしている場合ではない、洋学を如何にして血肉とし自身の力とするか、その後で初めて勤皇も攘夷も議論ができる。当時の辰次郎はそんなことを言っていたように思う。文弱め、怖気付いたかと罵られ、生傷を付けて現れることも増えた。連中は辰次郎が砲術に聡く決して戦下手ではないことは忘れていたか、敢えて気付かぬ振りをしていたように思う。奴が冴えぬ家柄の出であったこともその扱いの一因であったろう。あいつらはてんで駄目だ。無論阿呆のように酒を飲んでばかりで何もしていない、家柄だけでそれなりの扱いをしてもらっているお前も駄目だが、駄目の方向性が違うんだ。お前はどちらかというと良い駄目さ、無害な駄目さだよ。酒に酩酊して徳利やら茶碗やらを引っくり返し困惑する酒屋の親爺を宥めつつ、辰次郎はそんなことを俺に言っていた。葡萄牙地震が云々というやつも、奴はどういった経緯か和蘭オランダ語から訳されたらしい舶来の歴史書を、おそらく江戸にいた頃に手に入れたのだろう、持っており、その頃に聞いたものだ。

 それからしばらくして俺は京は二条河原、毛利殿の屋敷へ連絡係として派遣されることになり、送別の時の辰次郎のなんとも言えぬ表情が今でも脳裏にこびり付いて離れない。京に着任し、俺は何の連絡役か、酒屋と米屋との間に限った毛利殿の名代だ、という評判になったころ、池田屋で同胞が斬られた。事後策として郷里の連中が嵯峨と伏見と山崎に集結することとなり、どうやら辰次郎は嵯峨の組にいるらしいということを風の噂で聞いた。
 湊川だよ。大堰川のたもと、渡月橋を眺めながら、奴はぽつりと呟いた。俺がせっかく洛中から嵯峨野くんだりまで出向いてやったというのに、朋有り遠方より来たるなんてよろしおすなァと酒屋の爺が持たせてくれた酒にも見向きもせずに、普段から身に付けている筈の大小を、手持ち無沙汰に弄っていたのだった。

 果たして結果は辰次郎の言っていた通りであった。辰次郎はよりにもよって御所への先遣隊の一員となり、 蛤御門への突撃を敢行、桑名や薩摩の連中と激烈な戦闘になったという。だから言ったろう、屋敷に辿り付いた辰次郎は青息吐息で絞り出すようにそう呟き、ここを引き払えと言い、事切れた。御所へ踏み込み中立売御門は攻略したが、その後薩摩の連中に激しく攻め込まれ、来島殿が負傷し自決、その後は散り散りとなったらしい。最後の気力を振り絞って屋敷まで辿り付いた辰次郎が倒れた場所にはどす黒い血溜まりが出来ていた。背中に砲弾の破片と銃弾を食らい、ザルに豆腐を擦り付けたかのようにグズグズになっていた。

 屋敷に残っていた連中を追い出し、毛利殿の屋敷に火を放ったのは俺だ。酒屋からつい一日前に寄越してもらった一斗樽からそこらに転がる徳利をかき集めて酒を汲んでくるのは忘れなかったが、辰次郎は屋敷に残してきてしまった。前後不覚になった俺を辰次郎には介抱してもらいながら、事切れた辰次郎を俺は世話してやることができなかった。

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 そして俺は五条河原にいる。屋敷に掛けた火は一面に燃え広がり、薩摩やら桑名やら新撰組の連中やら(昼間にも関わらず松明を持ったダンダラの連中が五条大橋を東山へ渡ってゆくのを何度か見た)が俺や同胞を狩り出す為であろう、京の各所へ砲撃し、点け火をし、これに折りからの強風のため、京の街は果たして火に包まれることになった。砲撃の音よりもおどろおどろしい、轟々とした音、火に巻かれ焼けてゆく京の人間達の悲鳴と家屋の焼ける音。辰次郎は無言で焼けてゆく。蛤御門や中立売御門のあたりには辰次郎のような連中が他にもいるかもしれない。さんざん罵ってきた辰次郎と同じ結末を迎えるとは皮肉なものだ。

 二昼夜続いた火は九条のあたりまで広がったようだが、ここ五条のあたりは随分と落ち着いたようだ。陽が登り、陽が落ち、月が出、また陽が登り落ち月が出て沈み、最後の徳利は辺りが真っ暗なうちに飲み干した。俺の周囲には嘔吐へどが散らばっている。俺がぶちまけたものだ。介抱してくれる奴は既に二条河原で灰になり、もう居ない。
 辺りには人がいなくなっていた。少し離れたところ、四条側と六条側にそれぞれ一人づつ、黒装束の男がいた。四条側の男は土手に寄り掛かり、煙管で煙草を呑んでいる。六条側の男は河原に座り、鴨を見ていた。鴨川を渡ってゆく鴨。仕様もないが、本当に鴨が鴨川を渡っていたのだ。
 俺はどうするべきか。嘔吐をあたりに撒いてばかりもいられない。宿酔でズキズキと痛む頭の中で辰次郎の声が反響していた。お前はどちらかというと良い駄目さ。無害な駄目さだよ。その無害さが実のところ辰次郎を死に追いやった面は無いだろうか。毛利殿の屋敷の連絡役に割り当てられたのは俺の家柄の功であり、蛤御門への突撃班に辰次郎が選ばれたのは落ち目で異端の奴の郷里での扱いに因るものではないか。俺の無害な駄目さが辰次郎を殺したのではないか。

 俺はヨロヨロと立ち上がった。傍らに転がしておいた徳利が何本か、立ち上がった拍子に転がり落ち、割れた。目下、京にいては残党狩りに逢い、よほど運が良くて捕縛、悪ければその場で殺されるかもしれない。もっとも屋敷が焼けた現在、京に居場所も無い。馴染の酒屋は毛利殿の威光が京にあったが為の馴染であり、今やそれも地に堕ちた。俺の駄目さ加減はともかくとして、京を脱出したほうがよいだろう。かといって郷里の萩に戻るかと言われると答えに窮する。俺は辰次郎にはなれないし、なりたくもない。しかし辰次郎が俺を評した駄目さをなんとかしないと奴に顔向けができない。

 俺は素面だ。泥酔するには相方が必要で、俺にはもうその相方がいない。素面でいるしかなくなってしまった。

 京を出るにはいくらか道があるが、鴨川のほとりに居る以上、下るか上るかしかない。ひとまず下ることにし、足を六条へ向けた。
 途端に鴨を見ていた男が立ち上がり、こちらを向いた。散歩帰りに鴨がいたので見ていたがそろそろ帰ろうか、といった何気無い所作ではあった。後ろを振り返ると煙草を呑んでいる男はそのままの姿勢で居るが、顔だけはこちらを向いている。鴨の男は何気無い風のまま近付いてくる。
 そういえば江戸から戻ってきた時、辰次郎はこう言っていた。薩摩の連中の抜刀術はすごい。日常のまま瞬間的に暴力をやり、またすぐ日常に戻るんだ。鴨の男も煙草の男も大小を差していたことに俺は今ようやく気付いた。

 鴨の男が抜いた太刀に朝日が煌き、川面を照らす白と刃身の白が被る。鴨が鴨川から飛び去った。