``一意な文字列''

雑多な事柄

ビール

 黒褐色の瓶の口が上のほうへ離れてゆくのを眺めていたとき、ぼくは自分がテーブルの上にいる事に気付いた。
 ふたつある灰皿のうち、片方はまだ空っぽだ。もう一方には既に何本か吸殻が転がっており、縁にはまだ火をつけたばかりらしいタバコが置かれている。灰皿のまわりにはタバコの葉と灰が散らばっているが、これは何度目かの散らかし具合らしく、その証拠にテーブルの隅に丸められたおしぼりにはタバコ葉と灰が絡まり、部分的に黒ずんでいる。テーブルの上には他に皿がいくつか置かれていて、出汁巻き玉子と冷奴だ。どうやらこのテーブルに陣取っているひとは歯か胃が悪いらしい。

 周囲を見回してみる。ぼくが今いる2人掛けのテーブルの他に4人掛けのテーブルが混ざるかたちで、ひと一人がやっと通れるくらいの隙間を開け、ところ狭しとテーブルが並んでいる。どのテーブルの上にも皿と灰皿とコップやジョッキ。ぼくの同輩もいれば違う連中もいる。
 通路を挟んだ隣りのテーブルにいるジョッキのハイボールなど、暖房が効きすぎているのか生来の汗っかきなのか、ずっとジョッキの表面に水滴をつけ続けている。メニューで隔てられたご近所さんには黒ホッピーとキンミヤ焼酎のナカが仲良く並んでおり、キンミヤの奴はマドラーでグルグル掻き回されすぎて目を回していて、黒ホッピーの相方がそれを見てゲラゲラ笑っている。愉快な連中だ。こちらもつられてニッコリしていたらキンミヤに睨み付けられてしまったので、そっと目を逸らした。メニューを飛び越えて殴りかかられてはたまったものではない。
 壁に目を向けるとそこには清酒や焼酎の一升瓶が並び、瓶たちの合間にお品書きが掲げられている。一升瓶たちは役目を終えて安らかに眠っているように見えるが、あらゆるテーブルからの笑い声、相槌、与太話、口論、そしてあらゆるテーブルのあらゆる灰皿およびあらゆるひとの鼻や口や指先のタバコから立ち上る煙のせいで、本当に安らかに眠れているのか、もしぼくが彼らのようにこの場所で眠れと言われたら、あんなに静粛に居れるか、自信は無い。
 辺りをキョロキョロ見回すのを止め、正面を見据えてみる。このテーブルのヌシとの対面だ。青白い顔をし、目には隈、手は少し震えているが、寒さだろうか。震える手で灰皿のタバコをつまみ、口元にもってゆく。ポロポロと灰や葉を零す。一服、二服、溜息をつき、ふたたびタバコを灰皿へ。なんとも不味そうにタバコを吸う奴だ。しかめ面をし、タバコの煙を浴びぬよう、顔を背けて手で煙を払っている。そして何を思ったか、再び灰皿に手を伸ばし、タバコを指に挟み、そのままぼくをグイと掴んで口元へ持っていった。
 
 黒褐色の瓶の口が上のほうへ離れてゆくのを眺めていたとき、ぼくはテーブルの上に帰り咲いていることに気がついた。テーブルのヌシはおしぼりで口を拭っている。おしぼりに絡みついていたタバコの葉が、拭った拍子にポロポロと落ちてゆき、テーブルに散ってゆく。ヌシもそれに気付き、舌打ちをしてテーブルをおしぼりで拭う。指に挟んでいたタバコを口に咥え、そのままテーブルの隅に置かれていた文庫本を開き、むっつりとした顔のまま、読み始めた。
 なんだこいつは、と思った。そのとき近くから「なんだこいつは、と思いませんか」と話し掛けられ、ぼくは飛び上がりそうになった。どぎまぎしながら声のしたほうを見ると、そこにはぼくの背丈の三倍くらいはあろうかという、黒褐色の瓶がそびえ立っていた。腹には赤星だかと書いてある。どうやらこいつはビールらしい。
 「なんだこいつは、と思ったでしょう」赤星はぼくに話しかけた。ええ、そう思いました、素直にぼくはそう返した。この人はここの常連らしいんです、と赤星は続ける。
 「この人はここの常連らしいんです。わたしもバックヤードで近くにいた諸兄に聞いただけで詳しいことは知らないんですけどね。毎週いつも決まった時間にやってきて、決まった席に座り、もしそこが空いてなければ空くまで待つといった徹底のしかたで、席についたらいつも同じものを注文し、同じタバコを吸い、同じようにむっつり黙って本を読むんだそうです。周囲のことなどてんで気にもかけず。そんでもって酒はガブガブと飲むそうで、何が楽しいのやら」
 周囲は相変らず騒がしい。赤星はよく喋る。よく息が続くなあと思っていたら、浮遊感。ヌシだ。油断していた。ヌシはそのままぼくを口元へ持っていった。指にはふたたびタバコがある。指を炙りそうなくらい、短くなっていた。
 
 黒褐色の瓶、これは赤星だ、赤星が上のほうへ離れてゆくのを眺めている。ぼくは再びテーブルの上にいる。テーブルの上の灰皿はひとつに減っていた。吸殻の溜まった灰皿は消え、今はカラッポの灰皿がひとつ、テーブルの隅に控えている。おしぼりも替えられた様子で、灰や葉の絡まりや、それらに由来する黒ずみのない、真っ白なおしぼりがこれまたテーブルの隅、灰皿と向い合うように置かれていた。ヌシはタバコを手にしておらず、口に咥えてもいない。黙々と本を読んでいる。
 赤星は急に静かになった。周囲は相変らず騒がしいが、ふと周囲を見回してみると、汗っかきのジョッキのハイボールも、目を回していたキンミヤ焼酎とそれを笑っていた黒ホッピーも、居なくなっていた。いや実際にはジョッキのハイボールは居り、キンミヤ焼酎も黒ホッピーも、加えてタカラ焼酎と赤ホッピーのペアも居たりするが、さっきまでそこで汗をかき、ぼくを睨みつけていた彼らは居ない。
 ねえ、なんだか変わったように見えないか。赤星に話し掛けてみる。赤星は眠っていた。安らかな寝顔だ。いや、これは安らかなんてものじゃない。安らかに見えるだけの寝顔だ。空っぽの寝顔だ。ぼくは愕然とし、まさかと思い壁を見遣る。清酒や焼酎の一升瓶たちの寝顔は安らかな寝顔で、赤星と同じ、空っぽの寝顔だった。彼らは空っぽだ。赤星も空っぽだ。つう、と、冷や汗が流れる。
 シュッ、とライターで火をつける音がした。音のしたほうを向くとヌシがタバコに火をつけていた。もわ、と煙を口から吐き出し、顔の周りを漂う煙を払う。一服、二服。そして灰皿にタバコを置いた。まっさらな灰皿に灰が落ち、煙が灰皿から立ち上る。ふう、とヌシは長い溜息をついた。そしてゆっくりと手を上げ、ひとを呼び止め、声を発した。
 
 「すみません、黒ホッピーセット、キンミヤで」
 
 まもなくぼくも赤星のように、眠りにつくだろう。そのときはぼくも空っぽの寝顔になるはずだ。汗っかきのジョッキのハイボールも、目を回したキンミヤ焼酎も、ぼくを睨みつけた黒ホッピーも、いまはみんな空っぽの寝顔を浮べて眠りについているだろう。
 ぼくはヌシがタバコをふかしているのを眺めている。相変らずむっつりとした顔をしている。ヌシの顔が青白いままで、顔色の変化が今まで無かったことにふと気付いた。赤星を眠りにつかせ、ぼくを眠りにいざなうヌシは、ずっと変わらぬ様子でタバコをふかし、本のページをペラペラと捲っている。
 こいつは赤星を飲み干した。ぼくのことも飲み干してきた。何度も。ぼくの次の役目を担う黒ホッピーとキンミヤでも、そのむっつりとした青白い顔で居続けられるだろうか。ぼくや赤星はお前になにもできなかったということか。そしてそのまま眠りにつけということか。
 今ぼくは自分の役目を理解した。ぼくは、そして赤星も、こいつを酔っ払わせる為にこのテーブルにいたのだ。その不健康そうな仏頂面を突き崩す為に。
 
 黒ホッピーとキンミヤ焼酎がテーブルに運ばれてきた。ヌシがぼくを持ち上げた。黒ホッピーとキンミヤは仲が良さそうだ。幼馴染かもしれない。
 おまえら、自分たちの役目を忘れるな。ぼくはそう叫び、ビックリした顔の彼らをコップの底から歪んだ像として見、ぼくは空っぽになった。