``一意な文字列''

雑多な事柄

劇場版『虐殺器官』について

先日、今更ながら劇場アニメ版の『虐殺器官』を観た。

同『ハーモニー』がとても悲しいことになっているという苦い記憶があり(そのあたりは
劇場版『ハーモニー』について - ``一意な文字列'' で書いた)、随分前に公開されたというニュースをみても観にゆく気にならず、今回もまた悲しいことになっているんだろうと憂鬱になり、悲しい目に遭ってやたらに酒を飲む破目になるんだったら観ないほうがいいやとずっと過ごしてきた。

しかしまあ観ないまま憂鬱でいるよりも観て憂鬱になったほうが健全かなと最近思うようになり、ちょうど観れる機会を得たので観てみることにした。
結果、予想通り憂鬱になり、冷凍庫でビン半分残して冷やしていたボンベイ・サファイアをストレートで一気に飲み上げ、見事に宿酔になってしまった。

ここで到来した宿酔はほぼ治りかけているが、どうしても憂鬱な気持が解消されてくれない。
なんとかしてこの落ち込み加減を文章の形で出しきり、憂鬱な気持にケリをつけたいがためこの文書を書いている。

以下、小説版および劇場アニメ版のネタバレが殆どの内容になります。


原作を基準にすると『虐殺器官』という物語は以下の2軸で展開されているように読める:

  • ラヴィス・シェパードという人物の罪の意識(ぼくを愛してくれていた母をぼくは殺してしまったのではないかという疑念)
  • ジョン・ポールおよび「虐殺の文法」の存在についての回答

前者の肉付けというか裏打ちのようなかたちでクラヴィスの部下であるアレックスの語る「地獄」も存在する。最初はエッセンスとしての存在程度ではあるが、アレックスの自殺とプラハでの逡巡を越えて「地獄」はクラヴィスの罪の意識の土壌のようになってゆく。
ラヴィスは母殺しという罪の意識を自分だけで抱えられるほどに強くはなく、それゆえ時折到来する「死者の国」で描かれる何もかもが死んだ穏やかな破滅の光景に安らぎを見出している。母からの呼び掛けに実家時代の安らぎも見出しているので母からの愛による安らぎもあるだろう。
その母を殺した罪をどうすればよいのか。ルツィア・シュクロウプ*1への告白とその反応で、ルツィアからの赦しのような感覚をクラヴィスは得る。自身の罪はルツィアによって赦された。しかしその赦しを施した存在は虐殺の文法の示唆と共に遠くへいってしまった。以後のシェパード大尉の戦闘は再びの赦しを追い求める追跡行となってゆく。
インドおよびヴィクトリア湖での戦闘を経、クラヴィスは自身の罪を赦してくれる唯一ともいえる存在であるルツィアを失う。赦しを求める気持ちはいつしか愛に変わり、クラヴィスは愛した者を失う喪失感に陥る。そして帰国し除隊した後のアメリカで、自身を愛してくれているはずだった母から実は愛されていなかった(と暗示される)ということを知る。
愛するものを失い、愛されていることも失なったのだ。クラヴィスは強くない。罪は赦されず、愛もない。そんな状態で地獄をひとりきりで直視し続けることなど、彼には耐えられなかったのだろう。アレックスのように地獄を正気でみつめる勇気がなかったのだ。
生き地獄、みんなで向かえば怖くない。クラヴィスは虐殺の文法を振り回し、ひとりきりで地獄をみつめるのではなく、生きる世界そのものを地獄にして逃げたのだ。

……というクラヴィスの一人称の物語という読み方をわたしはしている。
前述の2軸のうち、これはあきらかに前者に偏った読み方であることは否定しない。虐殺の文法は重要な要素であるとはいえ、物語を成立させる小道具のひとつとして読んでいる。

いっぽう劇場アニメ版はクラヴィスの母に関する描写がない。アレックスの語る「地獄」については要所要所で語られるものの、クラヴィスが「地獄」を自身に強く結びつけているような描写もない。そのうえアレックスの語る「地獄」は感情適応調整、PTSD、および虐殺の文法による効果によるもののような描写にも見えなくはない。
ルツィアの描写はどうだろう。アニメではジョン・ポール、少なくともルーシャス一味の仲間として描かれている。原作での赦しを与える存在からズレてしまった。クラヴィスチェコ語のレッスンにおける会話のみで*2ルツィアに惚れたかのような描かれ方をしている。
ルツィアは最終的に射殺され、原作通り退場する。母からの愛や母殺しへの罪の意識もなく、ルツィアからの赦しに呼応する彼女への愛もないクラヴィスは何をもって虐殺の文法を振り回すのだろうか? ルツィアを殺した世界への復讐に見えなくもない。

地獄を愛なくひとりでみつめることからの逃亡。惚れた女を殺した世界への復讐。クラヴィスの強くなさはここで小説版とアニメ版とで奇妙な一致をみた。
ここまで書いてクラヴィスという人物の捉え方の根底はどちらでもあまり変わらないのだという結論に至り、自分でも驚いている。

罪の意識、愛すること、愛されること、そのすべてが解決不能ないし消滅したことで虐殺の文法を振り回すこと。
愛する女性を死に追いやった世界に牙を剥くことで虐殺の文法を振り回すこと。
しかしながら前者を描き切り主人公を空虚な絶望で染め上げることに成功した小説版の展開に比べ、後者はとても簡潔でわかりやすい。わかりやすすぎる嫌いがあるように思う。
愛することに対してアニメ版のクラヴィスは純粋すぎ、なんだか表面がツルリと綺麗な感じだ。小説版のクラヴィスは顔をクシャクシャにしてベソをかいているような醜さがある。

世界を「地獄」に叩き込むなら綺麗な人間よりも醜い人間のほうがよい。そんな訳のわからないわたし自身の気持ち悪さが劇場アニメ版『虐殺器官』を観て憂鬱な気分にさせた理由なように思う。

*1:アニメ版で「シュクロウポヴァ」と女性形っぽくなっていたのはよかった

*2:作戦前にやったかもしれないプロファイルの読み込みなども描写外で効果あるのかもしれない。が、アニメ版でそういう描写ってあったかしら? 記憶がない