``一意な文字列''

雑多な事柄

『鳥は重力に抗って飛ぶのではない』についての感想

これで以下のように書いた:

ただテーマありきで文章を綴っているような印象が多々あり、『風立ちぬ』の批評についてはテーマにすりよせすぎている感があった。

これに続けてポロポロと印象を書いたが、もっとちゃんとわたし自身が得た感想を書いておくべきと思ったので記す。
『母性のディストピア I 接触篇』第3部『宮崎駿と「母性のユートピア」』を読んでいた際に書いたメモ(とは名ばかりで2日間分の日記)を基にしている。



注:
以下は『風立ちぬ』評である『鳥は重力に抗って飛ぶのではない』を読む前の内容

昨日から『母性のディストピア』という本を読んでいる。宮崎駿評があった。曰く『紅の豚』以降は少年像を代弁する少女の姿は失せ、男性性を支えて包む母たる女の役柄のキャラクタにシフトしていった。宮崎駿の描く「少年」は母の支えがあって始めて飛ぶことができる。この理屈から『風立ちぬ』を考えてみたい。
まず二郎は飛ばない。飛ぼうとはしたけれど挫折した。燃えて崩れて揉まれて奈緒子と出会う。忘れる。飛ぶものを作る段になり奈緒子と再開、奈緒子の「支え」により二郎は飛ぶものを作った。奈緒子は無くなり、作り出したものは破滅をもたらした。それでも奈緒子は生きろという。オワリ。
『母性のディストピア』の論理では奈緒子は死なので少女ではなく母たる女だ。ただ母の支えがあっても二郎は飛んでいない。二郎は飛ぶことそのものではなく、飛ぶものを下から見上げたり上から見下ろすばかりだ。自身が飛ぶのではなく、自身の夢を飛ばすものをつくっている。
この物語の中で母性のあるものとは二郎の母くらいしかいないのではと思う。抱擁する母もいないし立ち向かう父もいない。『もののけ姫』あたりまで『風立ちぬ』は論点を戻してしまっているのかもしれない。
風立ちぬ』は虚構ではなく現実(『母性のディストピア』でこれを表現する言葉が使われていたが忘れた)に近い立場から物語が描かれている。現実を触るとき宮崎駿は「生きろ」という。自分は生きねばならぬということをハナから信じてもいないのに。
二郎を包んでいた「母」とは美しさという概念であり、飛行機という「夢」なのかもしれないなと思った。二郎がみていたものは虚構だったのか。虚構に包まれ、美に飛び、国も愛するものも破滅させた。単なるニヒリストっぽい。



注:
以下は上の内容を書いた次の日に書いたもので、『風立ちぬ』評である『鳥は重力に抗って飛ぶのではない』を読んだ後の内容

『母性のディストピア宮崎駿章の『風立ちぬ』評は昨日の日記とは全然違った内容だった。
しかしカプロニを平和の側とみなして二郎のマチズモ指向とやらと対比するのは乱暴だ。カプロニは自身のそして二郎の夢をハッキリと呪われたものと評している。カプロニ初登場のシーンも「敵の街を焼きに行く」爆撃機の風景だし、家族やら職工の一族やらを乗せた大型機も爆撃機だ。
二郎の対立軸としてカプロニを置くのはズレでいて、やはり二郎がカプロニによって魅せられた「夢」にどう向き合うか、向き合ってきたか、向き合った結果どうなったかを描いた物語が『風立ちぬ』なのだと思う。奈緒子がその美しい時だけを二郎に観せることで母性の象徴となったというのは「美しい時」が宮崎駿の物語の中で「母」を示すものでは必ずしもないのではとも思う、が、母性の要素ではあったことは正しそう。



上の内容を踏まえて改めて『母性のディストピア』を読み直した結果、二郎は奈緒子の母性に因って飛んだのかという点については肯定ができそうだと思い直した。
二郎は美しい飛行機という夢が飛翔することで自身も飛ぶことができ、奈緒子に再会するまでは飛んでも墜落していたが奈緒子の支えによって悠々と飛び続けることができるようになった、という解釈ができるように思えた為だ。

カプロニと二郎については一方で上の内容から変化がない。二郎の抱いていた美しい夢は先人であるカプロニ曰く呪われた夢であり、カプロニはそれでも呪われた夢を目指すことを選んだ。二郎は呪われた夢を追うことには回答せず、ただ美しい飛行機を作るのだと答える。
かくてその美しい飛行機は奈緒子を死に誘い、国を滅ぼした。美しい飛行機達は一機も二郎の許に還ってくることはなく、空の彼方に消えた。
呪いによってズタズタにされた二郎はそれでも生きねばならない。

二郎が飛ぶことができるようになった帰結が奈緒子の死、国の滅亡、かつて抱いた夢が空の彼方に行ったきりとなる絶望という帰結になり、それでも生きろと言われるという破滅の物語であるという私的な解釈には、やはり以下から得に変化はない:

風立ちぬ』は母性のディストピアであるし、美麗な夢のディストピアでもある。