``一意な文字列''

雑多な事柄

読んだり観たりしたもの (2021-07)

読んだもの

貨幣論 (ちくま学芸文庫)
『責任という虚構』に影響されて。カネの存立には具体的な根拠などなく、未来永劫にわたる信用への期待にもとづくものなのだ、というものと読んだ。もし今後マルクスを読む機会があったら副読本として手元に置いておくと便利そうだと思った。
便利な道具はその存立に根拠がなくても慣習が機能していれば不便なく使うことができる。

白鯨(上) (新潮文庫)


とくに Docker への知見はない(当然だ)。
表紙のデザインが違う。もっと猛々しいものだった。イシュメールたちはナンタケット島から捕鯨に出港した。俺は活字の海に投げ出され、活字の塊の波に飲まれアップアップしている。とにかく俺は鯨が好きなんだ、鯨と捕鯨について語らせやがれ、という筆者の溢れんばかりの気持ちを感じる。

生誕の災厄 新装版
いつだか読んだ『生まれてこないほうが良かったのか?』はこれのついでに読むつもりのものだった。良いフレーズがいくつもあったが読み終えたらどこに何があったか全部忘れた。付箋を貼るようなものでもないと思われ、とにかくこの本を読めば良いフレーズが得られるという軟派な印象を残しておくに留めようと思う。

観たもの

『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』劇場先行通常版 Blu-ray
映画館で観た。伏線が全然回収されていない……と愕然としていたら三部作のうちの第一作という事を知って安堵した。わたしはガンダムについては素人である。
敵を迎撃する友軍の流れ弾(?)で市街地がメチャクチャになり人々が巻き込まれ死傷してゆくのは空襲国家であった日本の諸都市でも見られた光景のはずで、ああ銃後の生活も悲惨だよな、と思った。
劇中で描かれる主人公の内情を知るには逆シャアを観るとよいと有識者に勧められたが一夜漬けではどうにもならず、残り二部作のなかでなんとか素人にもわかるかたちで説明してもらえると嬉しいなあ、どうだろうなあ。無理かなあ。勉強しなきゃだめかなあ。

読んだり観たりしたもの (2021-06)

読んだもの

セロトニン

先生とうとう行きつくところまで行ってしまったか。ウエルベック第一部完、という感じをうけた。今までの物語で提示してきた救済や指針はここでは一切なく、とうとう「絶望」それ自体に足を踏み入れてしまった。過去の作品において救済が失われた人々は割合手早く自殺を選んだが、この物語の主人公は自分を見つめ切って、ある種の清算をし切ってから自殺を選んだ。思想の清算が主人公の清算として現れたのだろうか。極上の陰惨だった。

増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫)

とても面白かった。罪に対して罰をなすのではなく、罰することで罪を解決する、という視点は新鮮だった。責任を負う主体や自由意志というものは虚構で、ゆえに「責任」とはサンクションに足り得ず、罰の象徴たる生贄として存在する。『統治と功利』を読んでいたときにも思ったが、論理や背景知識についてゆけない面は多々あれど、このあたりのジャンル(法哲学になるのか?)は考察の内容がとても興味深い。不勉強なため肉付けの検証が自力ではできないのがとても悲しい。

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

反出生主義の解説から反論そして今後の理論の発展や展望などを扱うとても面白い本。新しい分野の開拓という雰囲気がそこかしこに感じられ、読んでてワクワクした。印度哲学がとてもプラグマティックで興味深いものがあった。反出生主義のブームはよくわからないが、単なる絶望のミームとしてそれを捉えるよりは、如何様にして肯定 / 否定ができるか、何を見出し、どう考えてゆくかといった方向に舵をきってゆけるとよいなと思った。

中身のない絶望は救われず、なにより面白くないのだということがここまで歳をくうことでようやくわかってきた感じがある。しかし救われず面白くないと言われたところで絶望の当事者としてはそんなこと知ったこっちゃなく、絶望でしかない。もはやこの本の感想でもなんでもないが、そこへの答案は『斜陽』があると私的には思っている。

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)

『責任という虚構』で参照されていたので。そこかしこのキーワードが古く時代を感じさせるが、内容はまったく古びていない。この本じたいの権威性を受け入れてしまいたくなるが、それはこの本の目指すべきところではなく、難しい。

観たもの

グッドフェローズ (字幕版)

ヒスった人間はこわい。「ヤクザの本質は暴力」云々というウシジマくんの一節を思い起こさせる映画だった。

裏切りのサーカス (字幕版)

なんとも微妙だったが観た人間のほうに問題がある。ゲイリー・オールドマンが老けていて衝撃を受けた。『レオン』の怪演のイメージしかなかったが、時期を考えれば老化するよな……。

インセプション(字幕版)

これもしかしたら過去に観て書いたかも。覚えてない。検索性の悪いこのブログである。でも書く。アイデア勝負で面白いなあと思った。

運び屋(字幕版)

家族と和解する道を選んだ『グラン・トリノ』といった感じ。北野武でいう『ソナチネ』がクリント・イーストウッドでいう『グラン・トリノ』だったのだろう。

フォレスト・ガンプ/一期一会 (字幕版)

よかった。ぜんぶうまくいった『カンティード』っぽい。

読んだり観たりしたもの (2021-05)

あと一日とそこらでは増えないのでもう書く。

読んだもの

オン・ザ・ロード (河出文庫)


北米大陸の広大さとイカれ具合に運と縁と狂気で立ち向かう人々の物語という感じで、ものすごい疾走感があった。しかしこの疾走感を最後まで維持できたのはディーンだけだった。「大人」(あとがきを考慮すると「つまらない知識人」というべきか)になってしまうことの寂しさ、切なさがここにもある。

ルポ川崎 (新潮文庫)
なんだかものすごく懐かしい気持ちになった。と思ったら解説で見知った地名がでてきて笑ってしまった。かくあった時期を懐かしく感じたり気軽に笑える境遇に落ち着けてよかったと思う。

やし酒飲み (岩波文庫)
読むアルコール。文体も世界観もキャラクターも全部イカれてて、神話的な世界とはかくもこう不条理なのか、どうして解説でカフカ(読んだことないけど)と比較されるわけだ、と感動を覚えつつもラリッた感じもなりそうでこわかった。
ある島の可能性』でパスカルキリスト教にぞっこんだったのはキリスト教がブッ飛べる (high-dope) からだみたいな一節があり、聖書方面なのか教義のほうなのか知らんが、神話的な世界でブッ飛べるというのは確かにそうかもしれないなと思った。

JR品川駅高輪口 (河出文庫)
『JR 上野駅公園口』はシリーズものだったのかと驚きつつ。字下げがやたらとあるとわたしは非常に困惑してしまうのだなとわかった。
憎悪に満ちた著者の世界観を今回は孤独と希死念慮のかたちで絞り出してみました、といった感じ。ただしこちらは愛していた祖母の導きで自死を断念し、残酷な社会の中で絶望しながらも死なずにいようとしたところで救いの手が差し延べられる、といった救済があり、思想性を少し曲げてでも生に可能性を示したかったのだなと思った。

JR高田馬場駅戸山口 (河出文庫)
ゆ虐 SS を読んでいるかのような気色悪さ、気味悪さ、人間への憎悪、パラノイア、ヒステリー、他者を操作できるという傲慢さ、云々、やたらめったらに傷をつけまくる。
上野駅』、『品川駅』、そしてこの『高田馬場駅』を通しての感想だが村上龍にでてくるような世俗的な感じをじっくり煮詰めて憎悪と混ぜてよく練り、閉塞感で包みました、という物語だ。思想性が強力すぎ、釣り針が頬に突き刺さったままリールを巻かれてゆく感じの痛みがある。クセになる。すごい作品群だと思う。

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)
結びのひとことがとてもよかった。内容はだいたい忘れた。

ポストコロナのSF (ハヤカワ文庫 JA ニ 3-6)
『オンライン福男』と『愛の夢』が好き。

観たもの

モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル (字幕版)
モンティ・パイソンだった。いやそれはそうなのだが。でもやっぱりモンティ・パイソンだった。

ギャング・オブ・ニューヨーク(字幕版)
ゴア描写がすごかった。群集の真っ只中で砲弾が炸裂すると何が起きるかがよくわかる。登場人物がだいたい『血と骨』の金俊平みたいな感じで観てて疲れた。

新幹線大爆破 [DVD]
ちょっと前に『監督不行届』を読み、長年の宿題としてこいつがあったのを思い出したので。
タイトルの入り方が『激動の昭和史 沖縄決戦』のそれとほぼ同じやりかたで笑ってしまった。物語はまあ普通だが『天国と地獄』でもまあ普通みたいなことを書いてしまった記憶があるので、こういう類の物語をうまく処理できない何か妙な習性がわたしにはあるのかもしれない。

トレインスポッティング(字幕版)
ラリッて狂って起訴されてヤク抜いてカタギになるが逆戻り、しかし脱出の道が開け、"So it does"。教育的な映画だと思った。

T2 トレインスポッティング (字幕版)
こっちのほうが好き。過去のしがらみから抜け出せなかった彼らがそれぞれのやりかたで過去にケリをつけてすこしだけ前に進む、といった感じか。ちょっと綺麗に書きすぎたかもしれない。

楽園追放 Expelled from Paradise【完全生産限定版】 [Blu-ray]


零下堂キアンさんみたいな台詞がでてきて大興奮してしまいそれ以降がわりとどうでもよくなってしまった。反省している。地上で生きる彼女の身体はこれからも変化してゆくのだろうか。恒常性を放棄した苦しみを楽しんでいってほしい。

酒瓶を割る

 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ウイスキーの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、台所の冷蔵庫の脇に無造作につっこまれているビニール袋の中から二枚、厚手のものを引き抜く。瓶をビニール袋にいれ、瓶の首を掴み、部屋に戻る。もう一枚はあとで使うので空いた指にひっかけたままだ。
 なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ウイスキーを呷る。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ウイスキーの瓶は思ったよりも硬く、一発で粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ジャラジャラとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。張り付いたラベルで保持されている少し大きめの破片はうまく割れず、ペナペナと中途半端な音を立てている。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がチャラチャラと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、すこし咽せる。わたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。
 
 規範と信仰の世界にわたしは生きている。そう言ってしまうのは簡単であり、逃げでもある。なぜなら規範と信仰の二語で表現されるには世界はあまりに複雑であり混沌であり、単純ではない。自分自身の生きる世界を規範と信仰の二字で切り取ることしかできないのは虚しく、切ない。さらに醜いことに切り取った世界の中に自分自身を含めたり含めなかったり、都合よく調整している。規範と信仰に生きるときもあればそうでないこともある。世界はそんなにペラペラなものではなく、そんな事はわかっていると思いつつも気付くと立場をコロコロ変えている。わたしは世界を切り取りたく、世界に自分を切り取られたくないだけだ。他者の手の届かないところから他者を批評したいだけなのだ。愕然とする。哀しくなる。他者を批評などしたくなはない、そう嘯きつつも、結局は目に見える世界の中から規範と信仰を切り取り、ほくそ笑むことをやめられない。世界を切り取る自分にふと気がつくとつい歯軋りをし、拳を握ってしまう。自身に目隠しをし、猿轡を噛ませ、手足を縛り上げ、麻袋にでも詰め、殴る蹴るをしたい、そんな衝動に駆られる。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。その合間に生きている。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたジンに最後のダメ押しで一滴を加える。まだ溢れない。ジンの瓶はこれで空になった。空になった瓶を抱え、厚手のビニール袋に空瓶を入れる。なにも入っていないビニール袋を部屋の片隅に投げ、テーブルの上にあるショットグラスを拾う。ショットグラスの三分の一程、ジンを呷る。今日もこれで何杯目だろうか。もう数えていない。瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 ジンの瓶は硬く、しぶとい。粉々になることなどない。それゆえわたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガチャガチャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。大きな破片が小さな破片になることはない。何度叩き付けても大きな破片はその大きさと形を維持し、小さな破片も同様だ。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、それでも何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がガチャガチャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ジンの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれ、二重にする。ふたたびショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ジンが喉を、胃を焼き、咽せる。咽せた拍子に逆流したジンが鼻に回り、くしゃみが出た。ジンの臭いがするくしゃみは最悪だ。わたしは最悪なくしゃみをしながら玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、まだいくつも積み上げられている。

 規範と信仰の世界にわたしは生きている。かつて有益な行動があった。行動をなるべく継続してゆこうと目標が立てられた。いつしか行動の継続が目標から必要にすりかわり、必ず達成すべきものと見做された。かくして行動は規範となった。規範となった行動にどのような効果があったのか、有益なのか無益なのか、それらが省みられることはいつしか無くなり、規範に忠実であることが求められ、かくして規範は信仰となる。世界が本当に規範と信仰なのか、実際のところわたしにはわからない。わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、それはあまりに矮小化された、願望や諦念を流し込んだ箱庭のようなものだ。わたしの切り取る世界はかくも単純であり、その単純な世界の一要素であるわたしの生活も規範と信仰だ。朝は早く起きねばならない。朝は近所の川縁を三十分程度散歩しなければならない。朝食は省略してもよいが昼食と夕食は自分で拵えなくてはならない。毎日少くとも二時間は紙の本に目を通さねばならない。日付を越える前に就寝せねばならない。もはや戒律である。わたしの切り取る世界は、生活は、かくもこうして窮屈だ。
 酒の無い日、月曜日朝から金曜日の夜までは概ねこのような事を考えて過ごしている。そうしてときどき宿酔で壊れる。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで注がれたウイスキーに最後のダメ押しで一滴を加える。ウイスキーの瓶はこれで空になった。まだ溢れない。空になった瓶を厚手のビニール袋で包む。テーブルの上にあるショットグラスを拾い、ウイスキーを呷る。ショットグラスの中身は半分程になった。口からウイスキーが溢れ、顎を伝い、シャツに少し垂れてしまった。今日はこれで何杯目だろうか。もう数えていない。一呼吸おき、ビニール袋に改めて瓶の首を握り、わたしは部屋の柱に空の瓶を思い切り叩き付けた。
 柱は瓶を殴り付けてきたことで片側だけ丸く凹んでいる。わたしは何度も何度も柱に瓶を叩き付ける。裾が砕け、胴が砕け、ガシャガシャとガラスの破片がビニール袋の中で音を立てる。あらかじめラベルを剥しておいたことで瓶は速やかに破片になる。瓶が破片になり、破片が更に小さな破片になり、袋の中の破片が細かく澄んだ音を立てるようになるまで、破片が袋をズタズタにするまで、何度も柱に瓶を叩き付ける。
 気付くと瓶はその形を失っている。瓶の首を持ったまま、すこし袋を振ってみる。袋に溜まった破片がカシャカシャと音を立てた。部屋の片隅に投げてあったビニール袋を拾い、ウイスキーの瓶だった破片たちの入った袋をその中にいれる。破片をビニール袋で二重にした格好だ。再びショットグラスを拾い、一息に全部飲み干す。ウイスキーが喉を、胃を焼き、わたしは激しく咳込んだ。咳込みながらわたしは部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、依然としていくつも積み上げられている。
 
 わたしの切り取る世界は規範と信仰の世界で、そんな世界は時々崩壊する。外部要因でも崩壊するし、内部要因(つまりわたしの問題ということだ)で崩壊することもある。内部要因の主たるものは宿酔だ。フツカヨイ的の自責や追悔の苦しさ切なさを文学の問題にも人生の問題にもしてはならぬと坂口安吾は説いた。しかしつらいものはつらいのだ。わたしのつまらぬ世界も生活も、そのなにもかもを宿酔は吹き飛ばす。尊守すべき規範は宙へバラバラに打ち上げられ、維持すべき信仰は燃え尽きる。しかし宿酔は、酩酊は、その場限りの崩壊しかもたらさぬ。バラバラになり燃え尽きたわたしのつまらぬ世界や生活は宿酔が過ぎ去った後、ふたたび萌え出すのだ。そして規範と信仰の世界が復興したちょうどよい時期に、爆撃の如く、全てを吹き飛ばす為に酩酊がやってくる。宿酔がやってくる。ウイスキーとジンはわたしの世界を生活を壊滅させる為の爆薬だ。
 酒を飲み始める日、金曜日の夜は概ねこのような事を考えて過ごしている。そうして今日も冷凍庫から霜のついたジンの瓶を取り出し、蓋を開ける。
 
 ショットグラスの縁いっぱいまで、冷凍庫で冷やされたジンを注ぐ。よく冷やされたジンはトロリとした液体となり、ショットグラスをなめらかに満たしてゆく。ゆるゆるとショットグラスを縁いっぱいまで満たしたところで、ジンの瓶もちょうど空となった。零さないようにジンを啜る。冷えたジンが酔いの回った身体を冷やし、心地良い。口を離したところでショットグラスのジンは半分程になっていた。空になり、霜が取れて水滴のついた瓶を厚手のビニール袋で包み、瓶の首を握り、部屋の柱、片側だけ歪に凹んだ側とは逆の側へ、わたしは思い切り叩き付けた。
 瞬間、ジンの瓶はガシャンと一発で粉々に砕け、裾も腹も肩もなにもかも大小の破片となり、柱に叩き付けた勢いのままビニール袋を幾度も切り裂いた。厚手とはいえ強度を失ったビニール袋はボロボロになり、袋としての機能を果たさず、破片を部屋と廊下の一面へぶち撒けた。一部は勢いそのまま叩き付けた柱へそのまま突き刺さった。様々な大きさのガラス片が蛍光灯の光を反射し、床で、柱で、キラキラと光っている。わたしはボロボロになったビニール袋越しに、残ったジンの瓶の首を握り締めながら、砕け散ったかつて瓶だったガラスの破片達を見つめていた。
 しばらく呆然としていたが、やがて破片を掃除しなくてはと思い至り、砕いた瓶を二重に包むため部屋の片隅に投げておいた袋を手にとった。ボロボロの袋と瓶の首を新しい袋にいれたとき、指と掌から出血していることに気が付いた。ガラス片がぶち撒けられた際に切ったのだろう。破片が突き刺さったままということはなかったので、大判の絆創膏を貼っておいた。少し深く切ったのだろう、また酔っ払っている為でもあるのだろう、出血は止まらない。あとで絆創膏を貼り替えなくてはならない。悪態を吐きながら、わたしは床に血が落ちないよう注意しつつ、また無事な指や掌を切らないように注意しつつ、ガラス片を拾い集めていった。
 破片をすべて拾い集めるころには、カーテンの向こう、窓の外は明るくなってきていた。夜が明けつつあるのだ。絆創膏は結局二回貼り替えた。ショットグラスに残ったジンを一気に飲み干し、わたしは破片が残っていないか注意しつつ部屋を出、玄関に向かい、靴箱の上、そのうちゴミ収集に出す予定の空き缶やら空き瓶やら段ボールやらを置いておく場所へ、かつて瓶だったものを置いた。
 わたしの家の玄関には、そうしてかつて瓶だったガラスの破片達が二重のビニール袋に包まれ、いくつも積み上げられている。しかし今日は燃えないゴミの収集日であるので、この積み上げられた元瓶達は処分しようと思う。酔いはすっかり醒めていた。飲み干したジンが効力を発揮することは無いだろう。

読んだもの (2021-04)

5月になってしまった。5月になってから読み終えたものを含みます。

危険な関係 (角川文庫)
同じようなことを延々とよくやるなと最初はとっつきづらかったのだが、ヴァルモン子爵とメルトイユ侯爵夫人は恋(というより篭絡だな)というゲームをやっているのだと捉えてからは読み易くなった。もっともだいぶ話が進んでからそこに気付いたのだが。
死してもなおゲームには負けない。ゲームのプレイヤーとしての気概を感じた。

統治と功利
『闇の自己啓発』の中で『ハーモニー』の原作のひとつと言及されており、気になったので。


上の発言のとおりで第 III 部まではクリプキやら何やら(全部忘れた。クリプキだけ円城塔あたり由来で辛うじて記憶の片隅に引掛った)で結論の為の積み上げをしているのだなくらいの感想しかなく、第 III 部からああ確かにこれはハーモニーの理論的な到達目標だ、となった。この本の読み手の態度としては完全に失格だと思う。

文字渦(新潮文庫)
5月に入ってから読み終えた。
文字を俎上にした悪ふざけ。本文とルビが乖離したせいでルビが信用できなくなったのはかなり厳しい読書体験(褒め言葉)だった。他の本を読むときにもこの影響を未だにひきずってしまっている嫌いがあり、なんという後遺症だと嘆いている。

アンネの日記 増補新訂版
5月に入ってから読み終えた。
「潜行」の生活であっても「生活」ではあるのでメシを食わなきゃいけないし排泄もしないといけない。食べ物は腐るし水洗便所が故障したらそれはもう酷いことになる。そして「生活」の空間が非常に限られたなかで人間がひしめきあって過ごすわけで、それはもう酷いことになる。群像劇として読んだが、これは日記なので日記として読むべきだったのだろうなと思った。

読んだり観たりしたもの (2021-03)

今月はあまり新規に摂取したものがない。手をつけた本はあるが読み終えてはいない。
月の半ばからはずっとウエルベックを読み返していた。『闘争領域の拡大』がかなりよかった。なんだろうこれは、どうすればいいんだろう、どうすればいいの? という、痣をつけてくる物語だ。

それはともかくとして。

読んだもの

東京都戦災誌
まあいつものように表紙をボンと乗せられるようなものではないよな。そして読了したというものでもないとは思う。
2年くらい前に物欲が爆発して購入したものを今年の始めから手をつけてやっと読み終えた。
たかが記録、されど記録。「戦災」誌なので戦災の記録だけと思っていたが、戦争のはじまりから終わりまで東京市東京府、最後は東京都になるけども、とにかく帝都を担う行政が戦争という事業にどのように取り組み、何ができて何ができなかったかが大量の活字で流れ込んでくる。下手な物語は記録の前には無力だ。


ちなみに付録の地図(東京市域と八王子方面の爆撃の被害状況)だけでも圧巻なのだが、この本を読み終えた後日にすみだ郷土文化資料館に行ってみたところ、この地図も実は正確な被害状況を示しているものではない、ということを知った。詳細は今でもなお不明であり調査中なのだそう。戦争というのはわからないことだらけだ。

観たもの

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』
映画を観ました、ということが言いたかった。Komm, suesser Tod のない旧劇だった。
惣流アスカを除いて登場人物にある程度の救済が与えられていて、これで物語も人物も完済したのだろう。
人類補完計画の発動以後は映像と演出が凄まじいことになっている以外は親子の対話を通じてという差こそあれ旧劇に沿った進行と描写と展開で、一部その中で式波ではなく惣流のほうのアスカとみられる救済の描写もあったが、得体の知れない怪物共に集団で滅茶苦茶にされて喰い散らかされた後に与えられる救済にしては「ゴメン」の一言、それも25年越しに一言ってひどすぎないですか(わたしは惣流アスカをかなり贔屓している)。
まあ TV 版 / 旧劇 / 新劇と通じてアスカは総じてひどい扱いを浮け続けていて、ハリボテの高慢さや傲岸不遜さ、優越感、自惚れこそをメチャクチャに叩き潰したくてこういう事をせざるを得なくなったのだろうか。他者への恐怖や孤独への不安には上手く折り合いをつけることができた様子ではある。
ラストの宇部市らしい付近の実写は『式日』の舞台っぽい建物の屋上(印象でしかなく間違っている可能性が高い)が一瞬映り、やっぱりカントクは実写がやりたかったんだなあと興奮した。総じて新劇は面白いは面白いが、エヴァという物語は旧劇でオちており、登場人物を何らかの動機で救済してやる必要が出てきたので新劇が作られ、物語は再び終わり、登場人物もこれで救われた、というように解釈した。


パリの戦闘にてガチョウ足行進で進軍してきた大量のエヴァンゲリオンしかり、Q から役目の増えた複座の搭乗を要求するエヴァンゲリオンなど、物語の中での戦闘が個人ではなく集団を要請するようになってきたのは注目に値するかもしれない。

読んだもの (2021-02)

クラッシュ (創元SF文庫)
自動車事故からよくもまあこんな緻密に言葉を練れるもんだ。『デス・プルーフ』みたいなやつかなと想像していたが、そいつの数十倍は気味が悪く粘着質で男根的だった。これを自伝の要素があると言えてしまうのはすごい。

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
労働というもんはみんなブルシットなもんなんだみたいな内容だと思っていたが違い、労働にはブルシットなものがある、というようなことから始まりブルシットな労働そして生活をしなくてはならぬ現代について考察を広げてゆく、といったような感じの内容だった。
注釈を全部すっ飛ばして読んでしまったことをひどく後悔している。

闇の自己啓発
何か結論を出す訳でもなく、合意に至るわけでもなく、題材になっている本から様々にあちらこちらに考察を広げてゆく。知識の散策をこのように自在にできたらとても楽しいだろうなと思った。生きることは苦痛だが、考えること、学ぶこと、知ることは楽しい。そんな一冊だった。

ヒトはなぜ自殺するのか
人間が自殺に至る思考のプロセスには典型的なものがあるということを知った。典型的なパターンを示すひとつの事例として挙げられている内容を読んでいるとどうも『二十歳の原点』とダブるようなものがあるように見え、あたりまえなのかもしれないが自死は別に必然ではないのだなと思った。