``一意な文字列''

雑多な事柄

読んだり見たりしたもの (2019-08)

8月31日は宿酔で一日中寝ていました。寝ている事しかできませんでした。
というわけで9月にはいってから8月を振り返る項目となりました。

読んだもの

書き換えられた聖書 (ちくま学芸文庫)
聖書の改変を扱うものなのだからまあ当然なのだが聖書の知識がないと面白さが足りないなあと思った。ただこの本を読んでしまうとどの『聖書』を読めばよいのかがわからなくなってしまう。

虚航船団 (新潮文庫)
読んでて疲れてしまった。酩酊してメチャメチャになってから読むと読みやすかった気がするのだがまあ酩酊していたときの記憶なのでそうでもないのかもしれない。

キャッチ=22〔新版〕(上) (ハヤカワepi文庫 ヘ)
キャッチ=22〔新版〕(下) (ハヤカワepi文庫 ヘ)
小説版モンティパイソンという感じがした。壊滅していた時系列が後半には正常に戻っていたことに解説を読むまで気付けなかった程度の読解しかできていなかったという事を付記しておく。

見たもの

ゼロ・ダーク・サーティ (字幕版)
プロパガンダとのことだがこの映画が何を宣伝してるのかがよくわからなかった。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 (字幕版)
ウォーターゲート事件のほうが観たかった……。

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男(字幕版)
一度構築された世界観は滅んだとしても消えるわけではない。

ビューティフル・マインド (字幕版)
数学の天才という描写がどこでも構わず数式を書き散らかすみたいなのはどこも変わらんのだなと思った。

ブラッド・ダイヤモンド (字幕版)
暴力が通貨になってる世界は怖い。暴力が日常になってしまったこどもも怖い。暴力に蓋をするとカネになる。

読んだり観たりしたもの (2019-07)

読んだもの

鷲は飛び立った (ハヤカワ文庫NV)
フィクションなので前作の世界観がどうとかいう気持ちにもならず純粋に楽しめた。

死にゆく者への祈り (ハヤカワ文庫 NV 266)
これもまあ普通に。スクールバスを爆弾で吹っ飛ばしたくだりが途中からどこかにいってしまった気がする。

酔っぱらいに贈る言葉 (ちくま文庫)
大好き。飲酒するときは常に持参したい。

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))
彼らも労働者であり、責務があった。虐殺という仕事。悲惨。

観たもの

宿酔で潰れる時間が多くなると観る映画が増えて便利。

雲のむこう、約束の場所
地続きにみえる日常の風景に突如戦車が出てくると興奮してしまう。
90式は日本の鉄道では横幅がありすぎて輸送できないということだがまあ北海道が共産圏に飲まれたということであちらの世界では戦後復興期に線路の幅を広げたということにしておいてあげましょう。

秒速5センチメートル
いままで観てなかっただけで実はとても好きな部類の物語なのだと思った。巧みな陳述が陳述で終わる哀しさ。

星を追う子ども
ごめんなさい、『となりのトトロ』『もののけ姫』『天空の城ラピュタ』にナウシカ原作の要素をまぶしたものにしかみえませんでした。

言の葉の庭
これも好き。鉄道に対する執着を感じる。

ダークナイト (字幕版)
狂人をみまもるのはおもしろい。

ヒート (字幕版)
まあよくあるドンパチ映画。

The Negotiator (字幕版)
なにがなんでも証拠を隠滅してやるという強い心意気を感じた。

読んだり観たりしたもの (2019-06)

読んだもの

深夜プラス1〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)
読み終えたときはすごく面白かったなあと思ったはずなのだが今はもうあまり印象にのこってない。感想は鮮度のよいうちに書いておくべきだったな。

鷲は舞い降りた (ハヤカワ文庫NV)
にわかで付け焼刃の知識でもドイツ側登場人物の格好とかが想像できたので楽しく読めた。半端な知識でも役に立つときもあるのだなと思った。

日本近代短篇小説選 昭和篇2 (岩波文庫)
『焼跡のイエス』を読みたくて買ったのだがまあそんなもんかという感じで終わってしまった……。

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
遠野物語』までは割合面白く読めたのだがそれ以降はうまく読めなくなってしまった。研究書を適切に読める能力がない。

観たもの

沈黙 -サイレンス-(字幕版)
登場人物たちが喋る英語がポルトガル語扱いだったことに途中まで気付かなかった。原作読了してるのに……。

読んだり観たりしたもの (2019-05)

5月分の内容だが5月末日は飲み屋で酩酊していたため書けなかった。そんなもんですよね。
5月分の内容だが6月1日(これを書いている日)までに摂取した内容を含んでいます。

読んだもの

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)
文明はかくも脆いが強い。今回は野蛮がすこし弱かったかしら。

後継者たち (ハヤカワepi文庫)
登場人物の知性と地の文の読み易さが連動するのかなり苦痛をおぼえる読書体験だった。

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)
読んでいても面白いと思えず、まったく合わなかった。本当に悲しい。

全体主義の起原 2――帝国主義 【新版】
前書きでハイデッガーだかが書いてたように3巻目から読みはじめたほうがよかったと思ってきた。

観たやつ

この世界の片隅に
風立ちぬ』が生きねばならぬことを厳しく示すことに比較してこちらは生きねばならぬことを優しく促すものと感じた。
物語がどれだけ穏やかでも荒れても最終的に破滅が訪れることが舞台と背景からわかりきっているので、物語そのものとは違う緊張感が共にあった。

突撃 [DVD]
人間であることに絶望したけど人間の歌声を聴いて泣く人間をみてまだまだ人間も捨てたもんじゃないですね、という物語。

クワイエットルームにようこそ
笑えなければ沈黙するしかない - megamouthの葬列 を読んで観たいと思ったので観た。
娑婆にはおもしろい世界とおもしろくない世界の間に濁流の崖が残酷に横たわっている。

彼の名は連休

 じゃあそろそろ帰り支度でもするかね。そう言って彼は洗濯してハンガーに吊るしたままだったシャツとデニムをとり、脱衣所に向かった。
あ、と少し間の抜けた声を出し、私は本棚の上の置き時計に目をやる。二十三時五十分を示していた。
うん、と私がこれまた間の抜けた返事をするのと同時に脱衣所の扉がバタンと音を立てて閉まった。もうそんな時間か。溜息をつきながらテーブルの上にある彼の使ったグラスに目をやる。

 彼はいつも私の元に突然やってくる。やあ、とインターホンを鳴らし、いやあ疲れたねと笑いながら、のしのし手ぶらで部屋に上がってくる。
たまにはなにか食べ物か飲み物を持ってきてくれてもいいんじゃない。わたしがそう言うと彼はインターホンの前に着いてから持ってくるの忘れたことに気付いちゃうんだよねとにこやかに言うのだった。気が利かないんだから、と私も溜息混りに笑う。

 結局、旅行とか遠出とかそういう普段の暮らしを忘れに出掛けるということを今回も彼とはしなかった。
私の部屋でぐうたらしたり、近所を散歩したり、部屋から少し離れた居酒屋にお酒を飲みに出掛けたり、普段でも出来るようなことを彼と一緒にしただけだった。
 どこか出掛けないのかいと彼は私に訊くのだが、どうも気乗りしないのだと私が答えると彼はうなずくだけだ。そうか、と一言、あとは訊きもしないし、勧めもしなかった。

 部屋でのぐうたらは文字通り。冷蔵庫にある食材で適当なごはんをこしらえたり、近所のスーパーで買ってきたお菓子をつまんだり、あまり行儀のよくない生活だ。
本を読んだりラジオを聴いたりテレビを観たりもした。サブスクリプション型の映像配信サービスで映画も観たりした。
映画といえば部屋の棚にあった『バリーリンドン』をなんとなく観て、これはこういうふうに観るもんではないなと彼と頷きあったりもした。

 私の部屋はおおきな川の近くにあるワンルームマンションで、部屋を出てすこし歩くと河川敷に出る。部屋でぐうたらするのに飽きると彼と連れ立って河川敷へ散歩に出ることもあった。
 私達と同じように男女で連れ立って散歩するカップル。ランニングウェアでジョギングする女性。練習帰りらしい少年野球の子供たち。川に釣竿を垂らして居眠りしているおじさん。
いろんな人がそれぞれの時間を過ごしていた。
 部屋でぐうたらしてるのも良いが外に出ると俺たちだけぐうたらしてる訳でもないって事がわかっていいな。彼はそう言ってひとりうなずく。
私達が特別ぐうたらしてるみたいな言い草ねと私が言うといや案外そうかもしれないと思ってたと彼は真顔で言った。

 彼も私もお酒はほどほどに嗜む。部屋でもお酒は飲んだけれども外にも飲みにいこうと彼は言い、私もそうねと部屋を出た。
向う先はマンションから十五分程歩いた所にあるかなりの歴史がある居酒屋だ。お品書きを見ずとも注文できるくらいにはそこでお酒を飲んでいる。
私も彼もよく飲んだ。酒飲みは酒飲みと連れ立つとますます酒を飲んでしまうそうだ。酒飲みとはいえない私達だが、この時ばかりは酒飲みになってしまっていたかもしれないなと今になると思う。
 私は酔った。彼も酔っていたと思う。どちらも顔に出ない質なので、どちらがどれくらい酔っているのかわからなかった。

 居酒屋からの帰り道。楽しかったね、部屋で飲むのとはまた違うねと私は言った。店だとまわりが変化するからいいな、部屋だといろいろこもるからなあと彼は答える。返答なのか独白なのかよくわからない事を返すのは素面でもよくあることだ。
楽しかったけどこの楽しさも終わるんだよね。ずっと楽しいままだったら良いのにな。私は独り言ちた。酔ったせいで照れ臭いことを言ったなと少し後悔した。
 そのとき連れ立って歩いていた彼が急に立ち止まった。手を繋いで歩いていたのでわたしはつんのめるような形で歩くのを止めさせられる格好になった。

 物事には終わりがあるくらいが丁度良いんだよ。終わりがなかったらそっちのほうが俺は悲しくなるな。
終わりがないと飽きるからな。終わるって解ってれば終わるまでを大切にする気になるだろ。
楽しいことも終わるし悲しいことも終わる。始まったら結局は終わりに進むしかないんだよな。

 言ってる事と顔とが見当ってないよ、と私は笑った。真面目だったのか酔っていたのか、彼はそのときも笑っていたのだった。
私達は再び歩き出した。繋いだ手を少し力を入れて握りしめた気がした。

 ごめん今回も部屋着よろしく。シャツとデニムとを身に纏い、この前やってきた時と同じ格好に戻った彼が居間に戻ってきた。
テーブルに置いてあった彼のグラスを手に取り、中身の烏龍茶を飲み干した。
今何時と彼は訊き、もうすぐ日付が変わるよと私は答える。じゃあそろそろ帰るわと彼はグラスをテーブルに置き、玄関に向かった。部屋着よろしくとは彼が私の部屋に居た間使っていた使い古しのパーカーとチノパンを洗濯しておいてくれ、という意味だ。わざわざ部屋着を携えて来るのが面倒なので置いておいてほしいと彼が言うのでそうしている。
 玄関に向かう彼に見送るよと私はソファから立ち上り、いいよと彼が言うのを無視して玄関まで一緒に向かった。

 ここでいい、と彼は靴を履きながら言う。私は頷き彼が靴を履き終えるのを待つ。
 じゃあおやすみと言う彼に私は訊いた。また会えるかな。
彼はきょとんとした顔になり、少ししていつもの笑みを浮べた。何を言うかと思えば。そんな言う程会ってない訳じゃないだろ。今生の別れみたいになってて怖いよ。
 そうなんだけどね。と私も笑う。今回はけっこう長く居てくれたじゃない。なんだか少し寂しくなっちゃった。
いつだって会えるしまた来るよ。また迷惑を掛けるね。彼はすこし済まなそうに言った。そんな事無いよ。待ってるね。私は笑みを浮べながら彼にしては珍しい言葉に返した。

 じゃ、行くわ。おやすみ。彼は言い、玄関のドアを開けた。
 うん、おやすみ。気をつけて。私は言い、彼の放した扉のノブを持つ。
 彼は玄関を出て数歩マンションの廊下を歩いたところで軽くこちらに手を降り、そのあとは来たときと同じようなテンポで階段を降りていった。夜の静けさの中に彼の靴音が響いていく。それもまた彼が帰ることでどんどん小さくなっていった。
マンションのエントランスの扉が開き、閉じる音がした。彼の靴音もまだしばらくは聞こえていたが、やがて聞こえなくなった。

 彼を迎える時、恥かしくて私は内緒にしているのだが少し扉を早めに開けている。
彼の足音が聞こえなくなり、私は静かに、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。
 居間に戻り、ふと本棚の上の置き時計を見やる。零時一分を示していた。

読んだもの (2019-04)

まだ4月も終わってないし平成も終わっていない。しかし今読んでいるやつの残量的に4月に読んだものが増えることはもうない。よって書いちゃう。

第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

どことなくメッセージ性が強くなっている気がしていて詩人っぽさは薄れていた。

ドイツ戦歿学生の手紙 (岩波新書 R (22))

文面が全部旧仮名遣いかつ旧字体で図らずもわだつみな人々が読んだままの雰囲気っぽくて緊張した。

自省録 (岩波文庫)

雨ニモ負ケズ』と『方丈記』とを足して2で割ったらこれが出てくるという気持ちになった。

ボラード病 (文春文庫)

ディストピアに生きる。

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

乾いた物語というのはこういうことを言うんじゃないかなと思ってたところで終盤の人死にの場面で急に物語が色付いて見えたのでわたしの目はアテにならん。

泥酔

 ビールジョッキを持ち上げたら親指が落ちてしまい、あやうくビールジョッキも取り落としそうになった。落ちた親指を見れば土色だ。もうそんなに飲んだか。飲酒すると時間を忘れてしまう。

 週末の夜は大抵行き付けの飲み屋で酒を飲んで過している。俺は煙草を酒の肴にする性分なので、店の入口を抜けて左に折れると広がる喫煙席に向かう。それほど広くはない空間に大小のテーブル席が並んでいて、店員は酔客の注文を聞き取るのに忙しい。口も喉も崩れかけているのが酔客の常なので発音される内容も崩れており、何を言っているのかが不明瞭だ。店員も大変だ。
 入口右側の禁煙席も含め決して広いとは言えない飲み屋だが人の入りは激しい。しかし客が増えても店員は席を案内することはない。空いている席を客が見繕って勝手に陣取る形態なのだ。相席ともいう。今俺が座っている席も酔客がひしめき煙草の煙がモウモウとたちこめる喫煙席を眺めて見付けたものだ。
 相席なので隣に座る酔客は見ず知らずの他人であることが殆どで、俺の両隣は競馬新聞を抱えたジイサン、向いは包装されたカーネーションを撫でているバアサン、斜向いにはフロックコートにシルクハットを被り缶ピースをほじくっている伊達男までもがいる。少し離れたところからは英語でも中国語でもない言葉も聞こえる。観光客だろうか。

 親指がなくなってしまったのでビールジョッキを落とさないように口に近付け、ビールを飲む。支えが心許無くジョッキがぐらつく。口から溢れたビールが顎を伝いシャツの襟にたれてしまった。これはいかんとハンカチで襟を拭くべくズボンのポケットに手をつっこんだが、今度は指が数本手からちぎれてしまいポケットの中でドロドロになってしまった。こころなしか足も柔らかくなってきている気がする。どうも酔いが予想以上に回ってきてしまったらしい。かろうじて残った指でハンカチをつまんでポケットから引き抜き、まだ無事なほうの手に持かえて襟を拭いた。

 オニイサンずいぶん飲むじゃないの、とカーネーションのバアサンが声を掛けてくる。ええまあ、と適当に返事する。ワタシはここの近所にずっと住んでてね、最近家を改築したんだけどね、もう四十年くらい前から住んでたね、夫と住んでてね、そいつを立て替えて新築のね、ここから歩いて五分くらいのところの同じ丁番なんだけど毎朝散歩してここが開いたらそこから夜までずっと飲んでてね常連とはみんな友達でみんなの顔を知ってるの一見さんとも仲良しでこの前はもう死ぬんだって言って泣いてたオノボリサンがいたから何が死ぬだバカヤロウって説教してやってね、オニイサン飲むじゃないの気をつけなよ。バアサンも酔っているようで下顎が崩れかけている。そうですか、すごいなあ、大変だなあ。相槌をうちながら俺も自分の顎を触っていると指が顎にめりこんだ。これは酔ってきたな。ふたたびビールを飲む。今回は零さずに飲めた。ここの酒はみんな強くてね油断するとすぐみんな潰れちまうんだ、ビールなんかじゃなくてここのナントカっていうブランデーをバカみたいに飲みまくってたやつが席でブッ倒れて救急車呼ばれたの見た事あるよ、とうとうバアサンの下顎がドロリと崩れた。

 向いのバアサンも両隣のジイサンもみんな愉快そうに声を張りあげては与太話をしている。酔った末の会話なぞ大抵は意味を無さないのだから与太話を楽しく繰り広げるのは全く正解だと思う。向いのバアサンは顎がなくなってもなんとか喋り続けようとし、俺の右隣にいた夫らしいジイサンがもうやめとけという手振りをし、そのまま流れるようにブランデーの入ったグラスを掴み、指がグラスにくっついたまま掌だけ離れてしまった。あらら、とグラスを見やる俺の視線に気付いたようすで恥かしそうな表情をする。ニッコリ笑って俺も指の欠けた手でジョッキを持ち上げ、中身を空にした。酔っているがまだ飲める。フロアを回る店員を呼び止めようとして腕を上げたら手が飛んでいってしまった。飛んでいった手を目で追っていたジイサンと目が合い、お互いに苦笑いし、グラスとジョッキで乾杯した。ジイサンの顔色は土色だった。俺の顔も土色だったろう。

 飲み屋の床は泥まみれだ。乾燥している箇所もあればまだ水気の多い場所もある。単に泥を床に撒いた訳ではない事は腕の形が残った土塊が落ちていたり靴や腕時計やネックレスが泥のいたるところに散乱していることからわかる。ここの店員は黒のスラックスに同じ色の革靴を履き、白いシャツでネクタイを締め灰色のベストを着るというのが制服のようだが、酔客の泥に満ちた店内をそんな上品な格好で歩くことは憚られると見え、制服の上からゴム引きの膝丈エプロンをつけゴム長靴を履いた格好で店内を歩いている。乾燥した泥がエプロンと長靴にこびりつき、パリパリになっている。

 泥酔とは泥のように酔うということではなく、酔って泥のようになることだ。

 ビールとブランデーのおかわりを注文し終え、煙草を吸おうとシャツの胸ポケットに手を伸ばしたときには無事と思っていたもう片方の手からも小指と薬指が泥になって消えていた。なんとか他の指を落とさないように煙草を抜き出し、ライターのやすりを擦ろうと親指に力を掛けたところでヤスリが親指を貫通した。タバコを吸えなくなってしまい哀しくなったがフロックコートの伊達男がマッチを擦ってくれた。伊達男はどこも土色になっていない。泥の中からみるマトモな人間は美しく、またどこか哀し気に見えた。

 酔いが回っても酒を飲みつづけることで泥酔の域に到達したとき、そこにあるのはよくわからない。
恍惚でもないし高揚でもない。ただ目の前がギラギラし、賑やかな周囲の音が意味を為さなくなる。ビールジョッキを持てなくなり、水の入ったコップも持てなくなり、自分がなんなのかもわからなくなる。

 なぜか。泥になるからだ。泥酔とは泥になることだ。

 と、喫煙席の入口に見知った顔が見えた。そういえば今日は待合せをしていたのだった。向こうもこちらに気付いたようだ。全身土色の俺に気付いた相手が顔色を変えるのと同時に泥の俺は形が崩れ、潰れた。喫いかけの泥まみれの煙草からはまだ煙が立ち上っており、煙の色も泥のような色をしていた。