``一意な文字列''

雑多な事柄

Frustration Through The Head

 思っていることや考えている事をうまく文章に落とし込めず悶々とする事が多々ある。そのほとんどが語彙の不足で、まあこれは自分が不甲斐ないせいである。しかし適切な語彙を使用している(と思われる)のにも関わらず、うまく文章に落とし込めないことも多々あって、例えば助詞がなんか違うとか語順がなんか違うとか、まあ率直に言えば文法的な問題で、これも自分が不甲斐ないせいであると言えばそうなのだが、とにかく語彙以外の問題で思っていることや考えていることをうまく表現できない事があるのだ。

 語学に堪能であれば「あーこれ日本語じゃ書けないわーじゃあちょっとドイツ語で書いてみよっかなー」とか出来るんだろうが、残念ながらそうはいかない。というか手間の差こそあれ言語間で表現可能な事物概念その他諸々に差があるとは思えないのだが、本当にそうなのか私にはわからないので触れないでおく。

 で、何が言いたかったかというと、思っていることや考えている事と言葉との間には無視の出来ない差がある場合があるということだ。もちろん無い場合もあるだろう。例えば「ペン」って言えば筆記描画に用いるもののひとつで主に手で持って筆記対象に押し付けて動かすことで筆記描画するものと表現できるし、これに異論は無いはずだ。しかし単語レベルでは無視できる程度の差しかない実体と言語表現が、文節、文、段落、文章と拡大していくに連れて、実体と言語表現との差は広がっていく。それは表現者自身の思考との間に生じる差でもあるし、表現を受け取った人が得る印象と、表現本来が意図していた事との間の差でもあろう。これはたぶん「解釈の違い」というやつで、同じ表現でも人によって多様な解釈が生じるのはいいことではあろうが、それが「自分の書いた文章」と「自分」との間で生じると愕然としてしまい、こんなはずじゃなかった、私の言いたいことはこんなことじゃなかったんだ、と思い悩む事になってしまうのだ。

 言語が不自由を強いるだとか言語はウイルスだとかいう考えがわかるような気がした。思考と言語の差の間にも通信路符号化定理が成立するのではなかろうかという考えも浮かんだが、これは理由付けが今は出来ないのでそういう考えが浮かんだ、と記すに留める。